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映像作品における音楽の表現、または音楽そのものについて・2 〜人間的な、あまりに人間的な〜

2007.01.23 Tuesday 14:43
 前稿(2007/01/21「映像作品における音楽の表現、または音楽そのものについて・1」)では、音楽をどのように映像で表現するか、ということについておもに述べました。
 で、今回は逆に、映像作品で音楽はどのような表現に用いられるか、ということについて少々。
 といっても、たとえば映画の中で、ある場面を盛り上げたりするためにサントラ音楽を流す、というような使い方についてはここでは触れません。それはまあ、わざわざ触れるまでもないことですから。

 前稿冒頭で「アマデウス」のことをちらっといいましたけど、あの作品で印象が強かったのは、主役の二人、モーツァルトとサリエリが初対面する場面でしょうか。
 サリエリは皇帝に献じるための曲を持参してきて、チェンバロでそれを演奏します。その後、モーツァルトと会話することになるんですが、そのときの話の流れで、モーツァルトが今聴いたばかりのサリエリの曲を演奏してみる、ということになります。
 この当時モーツァルトは天才として有名ではあったものの、ウィーンでは新参者、しかも若造で、対するサリエリは40代、宮廷作曲家として高い地位と名声を持ち、明らかにモーツァルトのほうが、サリエリを立てなければならない立場でした。
 彼は皇帝とサリエリの面前で、たった一回聴いただけの曲を易々と、完璧に弾いてみせます。それどころか、
「ここがどうも気に入らないんだよなあ」
 なんてことをいいながら、途中から即興でアレンジをしてしまい、しかもそれがオリジナルよりはるかにいい出来であったりしたもんだから、サリエリは面目丸潰れとなります。
 この場合の音楽は、主役二人の関係や心理、モーツァルトの天才、彼の、無邪気だが礼に欠けた性格などを、表現するために用いられています。
 ちょっと話が横道にそれるんですが、「アマデウス」はどうも、天才対凡才の確執、凡人が偉大な才能を目の当たりにしたときに覚える嫉妬や憎悪を描いている、と受けとられがちだし、また、実際そういうふうに紹介されることがしばしばなんですが…しかし、はっきりいいますけど、これはあまりに表層的な受けとり方で、少なくとも一般の視聴者がそう受けとるならともかく、プロの評論家による映画評なんかでそういう解説がされているのを見ると、
「いや、浅すぎるだろ、その解釈は」
 と、僕なんかは思ってしまうんですが。
 というのも、サリエリがモーツァルトを、その才能を妬んで毒殺した、というモチーフ自体は「アマデウス」のオリジナルではなく、リムスキー=コルサコフのオペラ「モーツァルトとサリエリ」にすでにあるからです。
 「アマデウス」はむしろ、「モーツァルトとサリエリ」で、一方的にサリエリを腹黒い人物として描いていたことに対し、そうではなかったとする新解釈を加えたところに、新味とオリジナリティーがあります。
 「アマデウス」というタイトルは、モーツァルトのセカンド・ネームからきたものですが、これは「神に愛でられし者」という意味で、モーツァルトに英才教育を施した父親が、彼が十歳になったとき、わざわざ加えて名づけたものです。つまりは「天才」ってことですね。
 「アマデウス」では、この天才という、どういう理由でだか神が選んで愛した、生まれついての比類ない存在に対し、努力してもやっと秀才止まりでしかない、つまりは神に愛され損ねたサリエリが、運命と神の理不尽を覚えて呪う、というのが本来のテーマです。
皮肉きわまりないことに、サリエリはモーツァルトの音楽の素晴らしさ、彼の天才を理解できる程度には、才能があります。秀才でもないただの凡才(オーストリア皇帝ヨーゼフ二世がその代表)は凡才ゆえに天才の音楽は理解できず、そのため羨望や嫉妬などとは無縁でいられます。
 しかしサリエリは、至高の音楽を理解はできても、自分で至高の音楽をつくり出すことはできない、せいぜいがモーツァルトの天才を証明するための、単なる評論家としての地位を、神から与えられたにすぎません。おかげで彼はこの、神の無慈悲で不公平な行いに対し、激しく懊悩することになります。モーツァルトに出会う以前の彼は、むしろ熱烈に敬虔な神の信徒だったのですが。
 モーツァルト殺害に至るサリエリの動機とは、単純な天才への嫉妬などではなく、明確に神への挑戦でした。神が愛した存在を殺し、その才能を自らのものとして盗み、天才の名誉を汚すことによって、彼は神へ復讐しようとしたのです。しかし、この試みはある意味で失敗に終わります。
 映画のラストでサリエリが、
「凡庸なる者よ、汝らの罪を赦そう」
 というのは、すべてのものを赦す存在であるはずの神から、ついに赦しを得られなかったという、サリエリの苦い感慨からくるものです。

 つまり、「アマデウス」とは、天才対凡才、あるいは秀才、というような構図の物語ではなく、天才を間に挟んだ、理不尽な神対それに惑わされ苦しむ凡庸な人間、という構図で成り立っている物語です。
 このことが日本でずっと誤解されっぱなしなのは、本質的にこの作品の背景にあるのがキリスト教、それもカトリックの思想だからでしょう。実際のところ、「アマデウス」は宗教を扱った作品といえます。が、日本人にはそれこそ一番ピンとこない題材でしょう。

 …と、話が横道にそれたままでページが大分進んでしまいました。「アマデウス」の解説をしただけだったなあ…。すみません。今回はここまでで。





↑さらに連載はつづきます。よろしければ拍手をどうぞ。


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