Speak Like a Child

世の風潮も時代の流れも無視して、ただ思うままくっちゃべる徒然ブログ。

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

幸村誠「ヴィンランド・サガ」

2008.12.24 Wednesday 18:03
 聖夜だから、というわけじゃないんですが、今宵は“愛”についてお話したいと思います…別にスガシカオの曲を話題にするわけじゃないぞ。
 幸村誠といえば前作「プラネテス」でも、愛をテーマに物語を描いてました。あの作品はアニメ化もされましたが、原作ファンからはあんまり受けがよくなかったようで。
 僕は、あれはあれで、先進国/後進国間の格差問題の視点から、宇宙開発という人類の挑戦と夢、その明暗両面を描いた良作だったと思ってるんですが、テーマの掘り下げ的に“愛”ってのは、確かにいくらか脇に押しやられてたかなあ、とは感じました。
 この「ヴィンランド・サガ」はまだ連載中ですけど、今年刊行された第6巻にて、「プラネテス」で提示された、
「人間の愛とはなにか?」
 という命題に、ひとつの回答が成されたように思えるので、この機会にご紹介を。

 ネット上で一部かまびかしい、いわゆるところの非モテ問題について、僕があまり言及したくないのは、むろん僕がモテ野郎でこの手の問題に無関係だから、ってんじゃなく、非モテな人たちの念頭にあるらしき“愛”ってのが、彼らの仮想敵たるモテな人たちの念頭にあるそれと、概念的にはそう遠いもんじゃないなあ、と感じられるからかもしれません。
 つまりなんだ、結局はモテ/非モテに関する論争ってのが、同じ価値観に立ってその価値の取引を展開している…要は利益を巡る争いにしか見えず、そのために僕にはなにをいえる言葉もないというか、そんな感慨ですかね。
 今夜はクリスマス・イヴなんで、さぞかし街中にはカップルがあふれかえり、そんで、そうしたカップルを見せつけられることでもって、自らがある価値観の壁によって排除されてる、と感じる人たちも多いことでしょう。
 それは実際間違ってないんですが、愛…少なくとも人間が行使する“愛”と呼ばれるものの本質が、そもそも排除であり、差別であり、弾圧であるという事実の前には、んなこと今さらであり、恋愛市場主義の勝ち組に上がれないルサンチマンは、よくも悪くもルサンチマン以上のものでも以下のものでもなく、そして、その市場の枠組みも、別段近代以降に何者かの手ででっち上げられた陰謀なんかじゃなくて、人間の原罪に起因する業であり、その業以外の愛を人が知らない以上、必然であるという、身も蓋もない真理があったりもするわけです。
 “日の下に新しきものなし”という諺が古代ローマにはあったそうですが、
「おまえが貪っている愛を、俺にもよこせ」
 ってな争いが、カインとアベルの頃から…あるいはイシュマエルとイサクの頃から、ヤコブとエサウの頃からあったことを思えば、ただ、古臭く陳腐な分配競争が、恋愛市場主義だ非モテだ、なんかしら目新しい装いの皮袋に注がれ、繰り返し飲み下されてるだけなのかも。それがいかんとかいうつもりは毛頭ないし、そんなことをいえる資格が僕にないのは当然ですが。いいとか悪いとかじゃなく、人間的な、あまりに人間的な欠落と歪みが、変わらず存在してるんだなあと、せいぜいそう感じる程度です。
 権益をよこせという主張じゃなくて、市場競争から自由になりたいんだ、って反論も当然あるでしょうが、でも、それができりゃ誰も原罪の苦しみなど感じなくて済むって話なんでして。クリスマス粉砕デモとかにネタではなくマジで参加する人って、自分が排除したり、差別したり、弾圧したりする“体制側”に回ること…どころじゃなく、すでにしてそういう体制に自らが組み込まれ、加担してるのではないか、とか疑問を感じないのかなあ、いや、そうした“事実”には意識的に盲目になってるんだろうなあ、とか僕は考えたりもするんですが。
 盲目ではなく自覚的だけれど、愛にまつわる罪悪を、自分は引き受けるつもりがないが他人は引き受けるべきだ、って姿勢なら、そういう人はまず、愛の不平等において他者の加害性を問責する資格を得てからにしてほしいもんです。つまり、地上で神の愛を実現してからにしてくれ、と。
 「エマ」の感想なんかで何度か表明してることですが、僕は、人の愛とはそもそもエゴイズムと無縁ではいられないものだと思っています。
 簡略にいってしまえば、誰かを愛するということは、それ以外の誰かを愛さないということであり、今夜誰かの喜ぶ顔が見たいという、ただそれだけの素朴な思いのために、プレゼントを購入する人にとって、それを買う金で一体何十人、何百人の、ワクチンが買えないために死ななければならない子供が救えるかなど、知ったことじゃないのは自明ってもんです。
 僕にしてからが、大切に思う人ひとりを救い、困難や苦痛や悲しみから守るためなら、その人以外の何十人、何百人が代償として地獄に堕ちようが平然としていられるでしょう。いや、その事実を誰かに突きつけられ、非難されればちょっとくらいは悩むかもしれないし、一晩くらいは眠れない夜を過ごすかもしれません(僕は万年不眠症なんですが)。非難に対しては、それに応える言葉を自分が持たないのも、先刻承知です。だからといって、それで僕が心底から反省し後悔するかといえばとんでもない話で、同じ状況に立たされれば何度だって、利己的で自己満足的で無慈悲なトリアージを敢行するでしょう。
 自分がそういう人間のひとりであり、自分の行使する愛が、そうした限界を持つものであると知っているがゆえに、僕は愛の、“利益分配の不平等”を嘆く気持ちにはなれません。愛とは不平等が前提です。そうでない愛の事例をご存知の方がいたら教えてください。
 人間に平等な愛は不可能であり、それは自然の中にしか存在しない、とは、幸村誠が「ヴィンランド・サガ」6巻でヴィリバルド修道士にいわせている通りに真実であり、その平等な愛の本質は死である、というのもまた、同様に残酷な真実でしょう。その真実を言語化するのは恐ろしいことで、いわば鏡を突きつけられるのと同様です。あるいはイエスが、姦淫の罪を犯した女に石を投げつけようとした群集に向かって、
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
 と諭したヨハネ福音書の説話を、突きつけられるのと同じです。
 そういや、非モテ問題をなんかしらの社会問題のように論じる言説ってのは、僕の知る限り海外には見られないようですが、まあ、こういうのはやっぱ宗教のない国特有のものなんでしょうかね。“宗教のない国”ってのは言葉の綾ですが、日本人は“愛”に向き合うことを、現代になってもなお、していないということなのかもしれません。

 んで、その「ヴィンランド・サガ」なんですが。
 舞台は11世紀の北欧。アイスランドの小さな村に、両親と姉と平和に暮らしていた少年トルフィンの運命は、武装したヨームの船団の突然の登場によって一変します。
 トルフィンの父トールズは、かつてヨーム戦士団で大隊長を務め、“戦鬼(トロル)”の異名で恐れられた戦士だったのですが、娘の誕生をきっかけに、殺し殺される戦いの生活に嫌気が差し、団を脱走することを選びました。しかし、彼の所在を発見したヨーム戦士団は、村人の命を盾に、無理やり彼を戦場へ駆り立てます。
 幼く、戦いに憧れるトルフィンは内緒で父の乗る船に潜り込むものの、その父は団の、かつてはトールズの同僚だったフローキが雇い入れたヴァイキングの首領、アシェラッドの手によって、決闘の末にトルフィンの目の前で殺害され、それ以来無邪気な少年だったトルフィンの生は、正式な決闘によってアシェラッドを倒し、父の仇をとることへと、その目的を変えることになります。そのためになら、アシェラッドのヴァイキング兵団に入団し、戦い、無辜の民への殺人や暴行や略奪に加担することも厭わないまでの憎悪を伴って。戦功の褒章は首領との決闘の権利であり、それを得るために彼は、父親が息子にもっとも望まなかった、殺し殺される生き方を引き受けることになったわけです。
 その、父の仇であるアシェラッドにしても、デーン人の父親とデーン人に強奪されたウェールズの貴族の母親との間に生まれたという複雑な背景を持っているのですが。
 デーン人に無下に扱われ、悲嘆のうちに死ぬしかなかった母への思慕のために、内心ではデーン人も、彼の率いるデーン人のヴァイキングも嫌っている彼が、唯一尊敬の念を抱いた戦士であるトールズの息子トルフィンに、一筋縄ではいかない感情を持っているのは、通常の決闘や本人が守る気のない約定はオーディン神への宣誓を口にするのに、トルフィンとの決闘では、(彼の父親との決闘に際してそうしたように)母方の先祖である“真の王”アルトゥリウス(アーサー王のモデル)の名においてそれをすることからも、窺えるところです。
 少年トルフィンにとって、優しく温かな父を奪ったアシェラッドが憎むべき存在であるのと同様、アシェラッドにとっても、母を奪い故国を奪ったデーン人が憎むべき存在であり、そして、アシェラッドがアルトゥリウス公が眠るとされる伝説の島アヴァロンを求めることと、すべての人が奴隷のような暮らしをせずにすむ、温暖で豊かな土地、ヴィンランド(“葡萄の実る土地”の意味。現在の北米)をトルフィンが求めることとは共通しています。
 この、“約束の地”を求める人々という主題は、トールズの親友で“本当の戦士”という理想のために強敵との戦いを求め、その戦士のたどり着く場所である天界のヴァルハラを求めるトルケルや、デンマークとノルウェーの王であるスヴェン1世の次男であり、父の愛を望みながらそれを得られず、キリスト教徒としての絶望の末に、失われたエデンを地上に再復させるとの決意を抱いたクヌート王子(後にイングランドを征服し、最初のデーン王朝を築くクヌート1世)にも繰り返されるものです。
 つまり、「ヴィンランド・サガ」は、失われたなにかを、あるいはまだ見ぬなにかを、あがくように渇仰する人間を描いた物語ということなのでしょう。その、人にとって失われたなにか、まだ見ぬなにかの象徴として、当然のことながら“愛”がそれに含まれるというのも、6巻のクヌート王子の悲嘆からわかることです。それを得られた者がもしいたとするなら、トルケル曰く“本当の戦士”であったかもしれないトールズが、そうなのでしょうが、であるからこそ、彼は死ななければならなかったともいえます。
 生きた人であるうちは本当の愛は得られない…にも関わらず、いや、そうであるからこそ、愛を求めないではいられないのが、人の業なら、そのような欠落と歪みを抱えた人という存在が、なおも神によって生かされている事実は、ある意味では喜劇だし、ある意味では悲劇でもあります。求めた神の愛が得られないことに憤ったカインが弟アベルを殺したとき、自らの罪の深さにおののき、
「わたしを見つける人は、誰でもわたしを殺すでしょう」
 といった彼を、しかし神は、
「そうではない。誰でもカインを殺す者は、七倍の復讐を受けるだろう」
 といって許しました。
 許されたカインの子孫が今の人間となり、彼と同じように愛の不在を嘆きながら、そのために罪を重ねるこの世のあり様を思えば、神の愛とはなんと残酷なものだろうか、と僕などは思わずにいられません。神はカインを許さず、殺すべきでした。そのほうが彼には安らぎだったでしょう。
 安らぎを与えたり獲得したりといった“利益分配”が愛ではない、という理解が人にないことが、神の嘆きであり、人は人でしかあり得ないことが、カイン以降の人の許されざる罪として残っています。
 作品の大きなターニング・ポイントとなった6巻のクヌート王子の王道への決意は、それをして無意味な殺し合いを重ねる人間たちに…その生のあがきに、せめてもの意味を与えるものではあるのでしょう。
 が、トールズが得たかもしれないものに較べれば、その“愛”はまだ一歩足りないものがあるように感じられるのも確かです。そのためにおそらくクヌート王子は、トールズのようには死なないのでしょうけれど、それは彼が求めたエデンに、決してたどり着けないことを意味するのかもしれません。人の愛はせいぜいがそれで限界であり、限界が設けられていることの悲しみゆえに、逆に僕は王子の決意に、胸を締めつけられるような思いにさせられるのですが。
 この場面を読んだときに、なぜかメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」を思い出しました。
「呪われた創造者よ、私が生命を受けた日は憎むべき日になったのである。神は慈悲をもって人間を自らに似せて美しく造ったのに、私の姿は人間に似ているがゆえにかえって不快で醜いものになったおまえ自身なのではないか」
 この怪物の言葉に、沈黙以外の返答のできる生きた人間がはたしているでしょうか?
 「フランケンシュタイン」は怪物となった人間の醜さが、その醜さの嘆きを主題にして物語をひたすらに美しくしています。神が人間を美しく造ったのだとしたら、それは人間が神に似ているからではなく、愛を奪われた悲しみによってなのかもしれません。醜くあることが悲しみをもたらし、それが同時に美しさなのだと。
 「ヴィンランド・サガ」の6巻を読み終えたときに、僕はそれに描かれる愛の不在という絶望ゆえに、むしろ自分の残酷さも身勝手も、許せる気持ちになっていました。
 神の慈悲とはおそらく、そういうものなのでしょう。





↑コミック・レビューというよりほとんど説教みたいになってますが、クリスマスだということでお許しいただきたいとか思ってる管理人に、どうか拍手でも。





コミック | comments(0) | trackbacks(0)

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday 18:03
- | - | -

コメント

コメントする










この記事のトラックバックURL

http://memento01.jugem.jp/trackback/311

トラックバック