Speak Like a Child

世の風潮も時代の流れも無視して、ただ思うままくっちゃべる徒然ブログ。

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

映像作品における音楽の表現、または音楽そのものについて・5 〜続・音楽個人史〜

2007.02.02 Friday 06:51
 ザ・スタイル・カウンシルは、それまで熱狂的なジャムのファンだった人からすれば、裏切り行為とさえいえるような、いかにも時流に乗った、売れ線を目指したような、お洒落でヒップなイメージで打ち出されたユニットでした。
 僕はスタカンに出会ってポール・ウェラーという人物を知り、さかのぼってジャムを知った人間だったから、
「そうじゃない。お洒落ってのは表面的なイメージだけだ。深い部分では全然違う」
 といい張ってましたけど、後から考えると“お洒落でヒップ”という世間の評価は、別段、そう遠いものでもなかったと思います。
 スタカンは初期の頃のもののほうが好きな僕ですけど、三枚目のアルバムの「ザ・コスト・オブ・ラヴィング」やその後の「コンフェッション・オブ・ア・ポップ・グループ」なんかは、当時流行ってたカフェ・バーなんかにそのままBGMとしてかかってたって、違和感なさそうな楽曲揃いでしたし。

 一曲一曲は案外シビアな政治的メッセージが込められているものの、正直いってスタカンのそのプロテスト的な、政治的な歌詞の内容には、中学生当時は痺れた僕も大人になった今となっては、むしろ苦笑を覚えてしまいます。
 特定の思想や主義にかぶれる時期ってのは、多くの人が体験するものですが、その時期を過ぎて後から振り返ると、どうにも気恥ずかしいわけで、それと似たような印象でしょうか。だからといって、その時期の自分の気持ちが嘘だったかといえばそうではなく、それはそれでそのときのリアルだったはずです。
 僕は人間というのは変質や自己矛盾が、ごく自然にある動物だと思っています。一つの信念を生涯貫きつづける、という人の生き方には、尊敬と憧れの念を抱きますが、自分が同じようにできるとは到底思えないし、また、本音をいうなら、そうなりたいともあまり考えません。人間存在の本質として、それはむしろ不自然なんじゃないか、と思うからです。
 ポール・ウェラーという人も、頭ではともかく、皮膚感覚でそれを知っている一人だったんじゃないでしょうか? 彼は自分が変質することを恐れなかった…逆のいい方をするなら、安定や定型化を自分に許さなかった人です。
 ジャムは、黒人音楽の影響を打ち出した実験作「ザ・ギフト」をリリースした後でも、絶大な人気と支持を受け、当時のパンク・シーンの中にあって押しも押されぬナンバーワン・バンドの地位を築いていました。しかし、その絶頂の時期に、ウェラーはあっさりバンドを解散させてしまいます。
「このバンドでできることはもうやったから」
「いつか辞めるのなら、惜しまれるうちに辞めたい」
 本人の弁ではそういうことでしたが、その後、スタカンのファースト・シングルで、このブログのタイトルにもなっている「スピーク・ライク・ア・チャイルド」をリリースした頃、彼はソングライティングが楽しいものであったことを久々に発見した、というようなことをいっています。
 ジャムの頃に彼がなにに行き詰まり、なぜ方向転換をはかったのか、この言葉から窺えるように思います。
 実際のところ、ローリングストーンズのように、50歳、60歳になってもジャムで食っていこうと思えばできたでしょうけれど、それをやる意義もモチベーションも、彼の中にはもうなかったのでしょう。ファンから顰蹙を買おうと、裏切りだと罵られようと、自らの音楽的欲求や必然性に従って変化することのほうを、彼は選んだのです。

 さて、僕のほうはといえば、ポール・ウェラーのポジティヴな変質とは180度違う意味で、やはり変わっていきました。
 中学の頃、そこそこ成績がよかった僕は、高校は、まあ県内でもそこそこ上のほうだといえる進学校に進みました。しかし、この進路が自分的に大失敗だったのです。
 地方の中途半端な進学校では当時ありがちだったんですが、とにかく学校側の生徒への干渉がひどく、また、僕の天邪鬼な性格もあって、学校生活は最悪の一言に尽きました。
 友達は一人もおらず、勉強にもまったく身が入らず、部活なんか当然やる気にもなれず、僕は学校が終われば速攻で家に帰り、パンクを聴き、本を読みまくりました。自分自身と、自分にはなんの価値もないと思えた学校生活とを、可能な限り切り離しておきたかったのです。別のいい方をするなら、音楽や小説の世界に逃避したわけです。
 それから、僕は親から毎日昼食代をもらってたんですが、昼は食べず、その金を映画代に使ってました。学校から家に帰ると、自転車に乗って街の映画館にいき、門限の時刻ぎりぎりまで一本の映画を繰り返し見ました(なるべく多く見たかったから、二本立て、三本立てのほうが好都合で、そういう映画館に入ることが多かったんですが)。後に大槻ケンヂの「グミ・チョコレート・パイン」を読んだとき、主人公がまったく同じことをやっていたので驚いた覚えがあります。
 そんな毎日だったから、当然成績はガタ落ち、試験じゃいつも赤点で補習の常連、てなことになったんですが、補習もろくに受けずにサボることが多かったように思います。今思えばよくもまあ卒業できたもんだと感心しますが。
 大学は何校か受験したものの全部落ち、僕は浪人することになりました。それより少し前には、スタカンはある意味その人気も、活動内容も尻すぼみになっていた頃でした。変化することを恐れないのはいいけど、ジャズ、ファンク、ソウル、ボサノヴァ、R&B、果てはヒップホップと、いくらなんでもいろんなことに手を出しすぎだ、というのが、当時のウェラーへの僕の率直な感想で、初期アルバム当時の瑞々しさも消え、客観的にいって実に下手くそな、垢抜けない打ち込み系の音楽、ラップやハウスまでやり出した頃には、もう駄目だ、やっぱりジャムで終わってるべき人だったんだ、とまで思ってました。
 僕が音楽に当時入れ込んだこと、そして今でも愛着を持っていることの理由には、本当のところ、自分が楽器もできず譜面も読めないコンプレックスがあったのかもしれません。
 僕には姉がいるんですが、姉は幼い頃からピアノを習っていて、フルートも吹けるのに、僕はまるでなにもできません。声がいいといわれることがたまにあって、歌もまあ下手ってほうでもなく、奇特な人から、うちのバンドでヴォーカルやらないか? なんていわれたこともありました。けど、下手じゃないったってカラオケでいい点数を出せる程度でしかなく、とてもじゃないが、大勢の人の前で披露できるようなもんじゃありません。
「俺はこんなに音楽が好きなのに、自分で音楽をつくったり、演奏したりすることはできない」
 そんな気持ちが、ずっと僕の中に潜んでいたんでしょう。
 パンクは楽器なんてろくにできなくていい、コードも三つしか知らなくていい、という世界ですが、セックス・ピストルズが活躍していた70年代ならともかく、80年代、90年代ともなると、それも、“スリーコード・パンク”と揶揄の対象にされました。とにかく、僕には音楽で自分を表現する才能はないことを、比較的早い段階で自覚しつつ、でも、なにか割り切れない思いがいつもあったように思います。
 結局のところ、その割り切れなさを抱えたまま、一リスナーとして音楽に接しつづけてきたわけですけど、そんな僕にとって、ポール・ウェラーはいつも特別な存在でした。その彼が明らかに音楽的に空回りし、行き詰まり、そしてそのクールさが特徴でもあったのに、だんだんと時代から置き去りにされ、輝きを失い始めていたのを見て、僕はひとかたならない失意と寂しさを感じたものでした。
 やがてスタカンは、自然消滅といった感じで活動を終えます。惜しまれて終わったジャムとはあまりに対照的でした。終わったんだな、と僕は思っただけでした。おそらくポール・ウェラーの二度目の復活はないだろうと感じました。ジャムとスタカン、二つの時代をつくっただけで、一人のアーティストとしてはじゅうぶんすぎるほどです。中学時代から追いかけつづけてきたヒーローのいささか寂しい幕切れに、なにか、いつも傍らにいて僕の背中を押してくれた人がいなくなったような空虚感を覚えつつも、当面の大学受験という目標に打ち込むしかありませんでした。
 しかし、すでに述べたように、最初の受験はすべて失敗。結果はハナから見えていたからさして意外でもなく、淡々と僕は予備校の入学手続きをしました。その頃の僕は、自分は他人とは違う、というような天邪鬼な自信も失せ、音楽で自分を表現する術のないことを知り、勉強もできず、受験に失敗して、浪人という肩身の狭い立場にいる、ただのさえない若造でした。
 音楽も聴いていたし小説も読みつづけ、映画も相変わらず見ていましたが、それらに接し始めた頃の、新鮮な感動を覚えることも、もはや少なくなっていました。
「俺にはなにもできない」
 という無力感、劣等感だけが、当時の僕の内側を支配していたものでした。そういう気持ちになることは高校のときからよくあったけど、その頃はそのたび、若造特有の根拠のない自信と、そしてウェラーの音楽が、
「そんなことはねえ!! なにかできることがあるはずだ!!」
 と、僕を叱咤し、立ち直らせてくれたのです。が、浪人の頃にはその二つともが、もう僕の中にも、僕の傍らにも、どこにもありませんでした。

 そんな鬱々とした気分で日々を過ごしていたあるとき、音楽雑誌を見ていて、ふと、ある記事が僕の目に入ってきました。
“ザ・ポール・ウェラー・ムーヴメント”
 ウェラーがそんな名称のプロジェクトを立ち上げ、ニ度目の音楽シーンへの回帰をはかるべく、シングルリリースとライヴをやる。
 記事は、そんな内容を伝えるものでした。

 音楽個人史といってるだけあって、まったくもって個人的な内容の文章ですな。次回もつづきますが、一人でもついてきてくれる人がいれば幸いです。


音楽 | comments(0) | trackbacks(0)

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday 06:51
- | - | -

コメント

コメントする










この記事のトラックバックURL

トラックバック機能は終了しました。

トラックバック