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小玉ユキ「坂道のアポロン」

2008.07.03 Thursday 16:03
 これもまだコミックで1巻しか出てないんですが、先への期待も込めて紹介を。
「え〜りなし〜スーツぅで〜キ〜メてた〜あの頃ぉま〜いばん〜女の子からキィッスのおくりぃも〜のぉ輝いてたリ〜ヴァ〜プール♪」
 先だってこの「坂道のアポロン」を読んでたら、近所の家から拙いピアノで竹内まりやの「マージービートで唄わせて」のサビのメロディが聴こえてきて、思わず飲んでた紅茶を噴きそうになったことがありました。なんというシンクロニシティ。この作品自体は、あまり過剰に時代性やそれによるノスタルジーを強調する作風ではない(1巻の時点では)んですが、おかげで高校時代に読んで、今のところ「コインロッカーベイビーズ」の次の次くらいに好きな村上龍作品である、「69」を引っ張り出してきて再読することになりました。
 60年代ったら僕が生まれる前の時代ですが、その頃ビートルズ、学生運動、ヒッピーイズム、サイケデリックといったことが、歴史上の記述としてではなく現在進行形の事象でありムーヴメントとして“生きていた”ことは知っています。そして、その直後の70年代に生まれた僕らの世代が、過去のムーヴメントの尻尾を引きずりながら生きた以上、これらをまったく無視するのが難しいってことも。
 つか、僕らが物心ついて、いわゆる“青春”なるものを謳歌した80年代って、ソ連は崩壊するわベルリンの壁は崩れるわ、ついでにジョン・レノンは死ぬわで、60年代当時の若者の熱狂や暴走にひとつの方向性を与えていた思想や象徴が、次々と無化していった時代だったのではないかと。マルクス主義終了の鐘の音とともに訪れたのは、その反動として思いっきり経済原理主義であったり、金銭至上主義であったり、消費優先主義であったりしたわけですが、そしてそんな軽佻浮薄の時代の空気に若者は我先にと乗っかったわけですが、アバンゲール(戦前派)に対するアプレゲール(戦後派)っていい方があるように、後の世代は前の世代の思想、道徳、倫理や価値観を否定するために生まれてくるようなもんなので、ここら辺は正しく、“歴史は繰り返す”ではないかなと。現に今、バブルが弾けた後の食い散らかされた餌場の始末を押しつけられた就職氷河期世代の、異議申し立てが展開されてる真っ最中ですし。
 思想うんぬんにほぼ興味皆無の管理人的には、マルクスの本を脇にジャズ喫茶のテーブルで仲間たちと小難しげな議論を交わすっちゅー、60年代的な若者のスタイルもそれはそれで憧れではあるんですけど、それよりも、女の子にモテたくてエレキ・ギター始めたり、好奇心からマリファナに手を出したり、アルチュール・ランボーの詩に陶酔したり、「明日のジョー」のラスト・シーンに涙したりといった下世話で卑近な青春のあり方のほうがわかりやすいし親しみやすいってのが本音です。「69」じゃ、少年時代の作者がモデルの主人公が憧れの女の子の気を惹くために、思想的意義なんて欠片もないバリケード封鎖を仲間たちと敢行しますけど、若者を若者として生かし、時に無軌道な熱狂へと駆り立てるのは、政治思想や社会正義みたいなまっとうで崇高な代物よりかは、音楽や映画や絵画や小説、詩、ファッション、セックス、それにもちろん友情や恋であったりするほうが、しっくりくる気はします。結局のところ、時代の激しい移り変わりの中で残っていくのは、上記のくだらなくて非生産的で一過性の流行だと当時は嘲られた風俗のほうなんでしょうから。
 実際、マルクスが死に(もともと生きてなかったともいえますが)、モスクワ広場からレーニン像が民衆の手で撤去され、毛沢東語録なぞ誰も読まなくなった時代になっても、相変わらずビートルズは聴かれつづけてますし。
 ま、とはいえストーンズに関してはさすがに、
「60の爺さんになってもピチピチの革ズボンはいてるのってどうよ?」
 的発言をしたノエル・ギャラガー同様、僕もいいかげんにしろとは思いますけど。

 「坂道のアポロン」について短く説明を。
 舞台は1966年の長崎。あの街を訪れたことのある人はご存知でしょうけど、長崎ってのはほんとに坂道だらけのところです。その坂道を上って毎日登校することに苦痛を感じる転校生の西見薫、バンカラ(死語だなあ…)な不良の川渕千太郎、千太郎の幼馴染の迎律子(通称りっちゃん)の三人が主人公。この三人が、かつての少年漫画のテンプレートをなぞるかのようにわかりやすいキャラ立てなのが、むしろ愉快というか、そのてらいのなさゆえに新鮮です。
 薫は七三分けに眼鏡、でも眼鏡をとると美形な秀才タイプだし、千太郎は鼻には絆創膏、眉の横には十字傷があって、草をくわてるような「ドカベン」の岩鬼タイプの不良だし、りっちゃんは髪をふたつに束ねて顔にはそばかすという、もう今では絶滅してしまったような、素朴な純情少女を地でいってる女の子だし。
 物語は1巻の時点では、この三人がそれぞれ友情や恋(未満)の感情を抱きながら、思春期の青くて清々しい関係を育んでいく様が描かれています。これから先の展開がどうなるかはわかりませんけど、とりあえずは舞台が長崎であり、造船の町だからって、たとえばベトナム戦争や安保闘争がテーマに据えられることはないんじゃないかなと。あんまり時代性を前面に押し出した作風でないおかげで、今の読者が“今”の物語として読むことにも支障はありません。
 ま、それでも僕はやっぱり背景となっている60年代という時代が気になったりもするんですけどね。
 たとえば、最初お互い気に入らないやつだと思っていた(友情関係への前振りとしては定番ですな)薫と千太郎を結びつけるのが、“ジャズ”なんですけど、千太郎がピアノで弾いたフレーズが気になって、初めて薫が買ったジャズのレコードが、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」だったり。
 ジャズにはまるで無知の管理人ですが、その僕が初めて聴いたジャズらしいジャズが、実はこの「モーニン」だったりするんですよね。正確には61年に初来日したときのライヴ盤で聴いたのが最初だったんですが、時代が時代ということもあって録音状態はまあそれなりだったにせよ、リー・モーガンとウェイン・ショーターの、フロントふたり組のスリリングなかけ合いにはマジで背筋が痺れるような興奮を覚えました。
 当時は日本にジャズ・ブームが吹き荒れていて、しかもそのきっかけをつくったのがメッセンジャーズだったそうで。おかげでメンバーは成田に降りるなり大歓待を受け、その感激をブレイキーは「スイング・ジャーナル」の記事で述べたりとか、そば屋の出前持ちが「モーニン」を口笛で吹いたなんてフォークロアができたりとか…このライヴ盤聴いてるだけで、遅れて生まれてきた僕でも興奮するくらいなんだから、当時の日本のジャズ・ファンの熱狂は、そら大変なもんだったんだろうと想像できます。このライヴ盤って、今じゃもう廃盤になってるかもなあ。できれば再盤してほしいんだけどなあ。
 とりあえず、この作品が66年という時代を舞台として必要としたのは、別段その頃の風俗を描くことを主眼としたからではなく、森田健作の「さらば涙といおう」的な青春の泥臭いまっすぐさや明るさ、前向きさ、てらいのなさを描くときに、それらが現代よりはあの時代のほうが似つかわしいと作者が判断したからではないかな、とか感じられます。どういうわけかそういったものは、現代を舞台にすると気恥ずかしさを伴わないではいられないんですよね。つか、千太郎みたいな“バンカラ”って今はもう絶滅してるし。
 青春のピュアネスを真正面から描こうというときに、現代の学校は残念ながら無邪気にピュアを語るにはあまりに深刻な問題が多数横たわる場所となってしまっています。60年代は今と違って単純に明るくいられた…とはいわないけれど、あの時代からこの時代へ巡る間に人々が切り捨ててしまったものは、やはりあったのではないかと。そういう時代の変遷ってのは人の世の常であり、それが僕らの生きている証でもあるのだから、そう簡単に否定するわけにもいかないんですが。
 後、なんか60年代的ピュアネスというものが、一回りして今の若者たちにはかえって違和感のない、むしろ新鮮で眩しさを感じる青春像として目に映るようになったのかな、という気も少しするかなあ。先の、80年代に60年代の思想が無化したって話とも重なるんですが、前の世代の価値観を後の連中が否定し破壊するサイクルってのは、なんとなく20年周期で決まってるような感じがあります。
 そんで、若い人らがひとつかふたつ上の世代を否定するとき、えてして、さらに上の世代の価値観に回帰していく…というか、今否定している世代がかつて否定したものを、とり戻そうとする意識が働くようなところがあるんじゃないかなと。僕ら70年代生まれがティーンだった時代、学園ラヴコメというやつが隆盛で、なんでそれが隆盛になったかっていうと、たとえば下駄箱にラヴレターとか、そんな初々しいイベントがまだ欠片くらいはリアリティを伴って感じられた一方で、クリスマスやバレンタインは完全にただの儀礼と化していたという、なんつーか、恋愛とカップル幻想の離反の過度期に当たっていたからじゃないかと。ご存知の通り、今は恋愛とカップル幻想ってのは、まったくなんの関係もない代物と化しています。バレンタインだクリスマスだは、TVや雑誌でさかんに流布される謳い文句やらのイメージによれば、いまだに恋人たちのイベントとして機能しているらしいが、んなの実際に信じてる人なんて希少になっちまってますし。
 そういう気配は80年代にすでにあって、だからこそフィクション中の“恋人”たちの中に理想の恋愛とカップリングの幻想を見て、ラヴコメがあんなに流行ったんだと僕は思ってるんですが、今はその幻想もさすがに耐用消費期限切れを起こしつつあるように感じられます。
 ティーンの青臭く清い純愛や友情を描くってのは、やり方さえ選べば今でも可能ではあるんでしょう。そのやり方のひとつとして、まだ清い愛や友情にてらいのなかった、過去の一時代を選ぶ、というのがあり、だから、この「坂道のアポロン」で物語られる66年は実在した66年というよりは、今の若い子らが、
「昔はきっとこんなだったんだろうなあ」
 と夢想するイメージの中に、あの時代を知っていて過去を懐かしむ年になった大人が思い浮かべる記憶の中に存在する、架空の時代だといったほうがいいのかもしれません。
「え〜りなし〜スーツぅで〜キ〜メてた〜あの頃ぉま〜いばん〜女の子からキィッスのおくりぃも〜のぉ輝いてたリ〜ヴァ〜プール♪」
 輝いていたのはたぶん、リヴァプールだけじゃなかったんでしょう。幻想や記憶の中にある場所が常にそうであるように、「坂道のアポロン」で描かれる長崎も、ほかの街と同じように、泥臭くまっすぐなピュアに輝いていたんじゃないでしょうか。そういうポジティヴなイメージでもって振り返ることができるほどに、60年代ははるか過去になってしまったということもできるんでしょうけど、でも、今の子たちは、そんな輝きをとり戻したいと夢想してるんじゃないかなとか、70年代生まれのおっさんは思ったりもします。





↑ビートルズ関連でいうなら、山岡の仲間が持ってたレコードが「HELP!」だったな、とかそんな細かいことに目がいく管理人に、どうか拍手でも。





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