Speak Like a Child

世の風潮も時代の流れも無視して、ただ思うままくっちゃべる徒然ブログ。

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

藤村真理「少女少年学級団」

2008.06.21 Saturday 17:22
 当ブログのコミック・レビューでは初の少女漫画です。
 つか、最近の僕はなんか知らんが少女漫画限定で読み耽ってるんですが、今後レビューでとり上げるのも、小玉ユキの「坂道のアポロン」や岩本ナオの「町で噂の天狗の子」など、少女漫画ばっかになりそうな気がしないでもなかったりなんかしちゃったりして。
 個人的に今このジャンルが一番、読み応えある作品をとり揃えてる感がするってのと、後、今の世相が世相だけに、優しいもの、温かいもの、柔らかいものを求め、かつそういったものをこそとり上げ、紹介する必要に駆られているというか。
 この「少女少年学級団」は、まだ単行本では1巻が刊行されただけなんですけど、1巻読んだだけでハートをわしづかみにされたんで、なにはともあれ紹介を。

 現実が重くて人間関係も殺伐としてきてるなあと感じたとき、僕は昔から物語の世界に逃避するか、自然が身近に感じられるところへ逃避してました。
 物語への逃避はもう、ある種自分の生理現象とか身体に染みついた習慣みたいなもんだから、それをいいとか悪いとか他人にいわれようが、僕個人にとってはどうしようもないものであって…てか、エスケープという行為自体も特別悪いことではないだろうと僕は思ってたりもしてるんで。
 よくいわれがちな、
「それは逃げだよ」
 的言辞に対しても、
「そのいい方で止めを刺せると思ってるっての自体、議論からの“逃げ”と違うか?」
 とか、ちらっといってやりたくもなったり。人間とは日常的に“逃げ”を自覚的であれ無自覚であれ繰り返してるもんですが、それが人の身に着いた習性なんだから、逃避が逃避であるというだけで非難できると思うほうが誤りじゃねーかと。なにから、どのように逃げるのかを問わない限り、あんまし意味ないだろうと。逃げちゃ駄目だと自分にいい聞かせてた「エヴァ」のシンジ君の葛藤は、僕には今いち理解の及ばないことでした。映画ではそのシンジ君も、別に逃げてよかったんだよなと開眼してましたが。
 物語への逃避うんぬんはそれはそれとして、自然があるところへ逃げるというのは、チャリが趣味の管理人としてはひとっ走りして公園や海岸や山へ出かけるということになります。現実の諸問題で煮詰まってるとき、僕に関しては視野狭窄に陥っていて精神的に余裕がなくなってるときだから、問題を相対化する必要があるわけで。そして、ベタないい方で我ながら恥ずかしいんですけど、自然と触れ合うとき、物事への対し方というものの一番本質的でベーシックな態度とか心構え…ようするに、“感じられることをそのまま感じとる”姿勢へと立ち返ることができるんですよね。
 物事を無意味に複雑化して、思考が煮詰まっちゃったり視野が狭くなっちゃったりというのは、大人が大人であることの弊害だよなあと感じます。政治学者の誰かが国際関係も男女関係で論じられると述べたように、複雑化した現代の諸問題もシンプルに捉えられる側面があり、問題を見るときの姿勢は本来、シンプルであるほうが本質に近づける場合があったりもしますし。ただ、大人は大人なりの社会経験や知識やらが邪魔をして、なかなかシンプルになれない生き物でもあって、しかも、年を経るごとにそれはどんどん難しくなっていくわけで。
 人間と知識との関係においては、“頭でっかち”は容易に人を視野狭窄や固定観念に陥らせるものでしょう。知識があることを根拠にしてる分、これは単なる無知より始末に負えないことも多々です。知識というやつは詰め込んだだけでは不十分で、それをどう捉え、どう身につけ、どう生かすか? というところにこそ、その人本来の“知性”が問われると思うんですが…要は、人間が知識の主であるべきで、その逆であってはいけないっちゅーことですな。

 それでだ、子供の社会を見てみると、案外と大人のそれと変わらなかったり、大人の社会の縮図であったりして、しばしば僕らは驚かされ、しかも、その縮図は単純化されてるがゆえに、本質をクリアに見せてくれたりもするという…その意味では、問題相対化の作業に、子供の社会や習性をサンプルとしてとり上げるのもアリではないかなという気がしたりもします。
 この「少女少年学級団」は一言でいったら、
「小学生もいろいろと大変ね」
 ってな話なんですが、男女比率がほぼ互角、そのせいでか男子と女子の仲があまりよろしくない小学校のとあるクラスに、一見男の子と見紛うようなボーイッシュな女の子、中谷遥が転入してくるところから物語がスタートします。
 前の学校じゃ男の子と混じって野球をやってた(彼女の夢はメジャー・リーガー)遥にすれば、体育の時間でも男子は野球、女子はドッジボールときっちり分かれ、休み時間でもいっしょに遊ばない決まりになってるこのクラスは、
「こんなのおかしいよ」
 といいたいことばかりで。しかし、彼女が男子のリーダー格、田辺渡と反発し、少年野球チームのエースの座を競い合う中で、次第にクラス内男女関係にも変化が起こり始めて…とまあ、そんな感じですね。
 この遥と渡のふたり、それから渡の兄で怪我のために挫折した元高校野球のエースの健の三人を軸に、小学校という小さな社会で子供たちが、夢や恋や友情を知り体験していく様が瑞々しく爽やかに描かれます。
 個人的にこの作品のなにがいいって、悪いやつ、嫌なやつがひとりも出てこないってところじゃないでしょうか。
 もとから俺様キャラの渡が憧れの健兄に触発されて、マラソン大会の団長を頑張ったはいいものの、その頑張りが空回りしてクラスメートから総スカンを食らい、いじめに遭ったり、さらにはストレス性の病気にかかったりと、そういう展開もあるこたあるんですが、だとしても、そのいじめは悪意の結果というよりは、誤解や未熟さ、もとからあったクラス内のいびつな関係の影響といったほうがいいものだったりします。
 ここら辺読んでると、子供を扱った作品は、そうであるからこそ、作者が大人でないと描けないんだなあと思いますな。こういう話を人間っちゅーもんの洞察に関していささか未熟な作者が手がけると、戯画化された“悪者(それも大人の)”を出して、悪いことの原因をそいつひとりにおっ被せたりするような、ありがちかつ予定調和な、子供を庇いたいあまりに浅い展開つくってしまったりするのが往々だったりもして。
 といって、子供の悪意や残酷さ、嫌らしさをこれでもかと露悪的に描くのでは、エンターテイメントとしては胃もたれがしてしまうでしょう。てか、だいたいそういうわかりやすく露骨な悪意というのも、それはそれであんましリアリズムに適っているとはいいがたいものなんですけど。
 子供を描く…それも子供の社会を描くってのは、言葉で説明するほどには簡単ではないものだと思いますが、その点、この「少女少年学級団」は、過不足のない描写としっかりしたストーリー運びで、バランスよくセンスよくエンターテイメントに仕立ててくれてるのが非常に気持ちいいです。大人が大人の目線で子供を描く際にありがちな、不自然さや作為がまったくないのにも好感が持てますし。
 子供を描く作品ということで、今パッと思いついたものに、あずまきよひこの「よつばと!」があるんですけど、あっちが子供を一種、大人とは別の生物であるかのような目線で外側から観察し活写しているのに対し、この作品は、子供を大人の原型として描いているところに違いがあるかな、と。「よつばと!」も非常に好きな作品なんですけど、こっちは大人と子供とをあえて区別しないスタンスをとっているというか。その辺りは子供たちを見守る大人の描き方を見てもわかるように思えます。
 1巻読んでて不覚にもボロッと涙をこぼしてしまった箇所があるんですが…まあ、既読の方はおおむね推察しておられることでしょうが、ええ、そうです、遥が女ってだけで野球選手の夢を諦めなくちゃいけないことを、渡の兄で遥の初恋の相手の健に泣いて訴える場面です。
 遥は子供だから素直に健兄に抱きついて、
「くやしいよぉ!」
 と泣いて叫んで、その感情を言葉と態度で表すことができるんですけど、このとき、
「すげえわかるよ、その気持ち。夢を諦めなきゃいけないってどんなんか知ってる」
 といいながらも、どうにもしてやれないと謝る健兄の姿に、僕はついつい泣けてしまったわけなんですが。怪我で自分の夢を諦めなくちゃいけないことを悟ったとき、彼だって本当は誰かにすがって泣いて叫びたい気持ちだったんだろうな、と感じられて。
 高校生とはいえ、遥や渡に較べりゃ大人の健は、ストレートに感情を表に出すことはないし、また、それが大人というもんの不自由さだったりもするんですが、でも、表に出そうが出すまいが、くやしかったり苦しかったり悲しかったりする気持ちというのは、大人も子供も変わりないんですよね。それをどうにもできないという点においても。
 健は、遥に対して子供だからという気持ちで下に見るような態度はとらず、常に同じ目線で正面から向き合う態度をとるところが、逆にしっかりと大人だなあ、と感じるんですけど、それは彼が遥と同じ痛みを知っているから…子供も大人と同じ痛みを感じ、大人と同じことで、同じように笑ったり怒ったり泣いたりするものだ、という認識を持ってるからじゃないかなと思えます。
 実際、子供ってのは、一般に大人が思うほどには“子供”じゃないんですよね。子供は“子供”という別の生き物ではなく、夢や恋や友情や人間関係といった、大人が悩み、戸惑い、痛みを感じるもので悩むものだし、戸惑うものだし、痛みを感じるもので。そういう意味では対等の生き物といっていいわけだし、また、様々な感情を体験することで成長をつづける点でも、子供と大人にさしたる違いはないといえます。
 だから、これが小学生が主人公で小学校が舞台の話であるからといって、別段子供の話として捉える必要もないのかもしれません。大人の、シンプルであるがゆえに本質的な原型である“僕ら”の物語と、そういう捉え方しても構わないんじゃないかという気がします。
 健兄は遥を子供だからという理由で、自分から切り離していいとは思っていないし、軽く扱っていいとも思ってません。彼女の訴える“くやしい”という感情を、それがそのまま自分自身が持った感情であるがゆえに、下手なごまかしや慰めを口にすることなく、
「どうにもしてやれない」
 と正直にいいます。
 一方、クラス担任の江島先生は、むしろ健とは反対に子供を子供として接する大人で、しかし、そんな彼ですら、受け持ちの生徒の小玉小絵から告白されて、初めのうちは子供の他愛ない願望だと軽く流そうとしたものの、
「子供だと思ってバカにしないでください」
「あたしだっていつかは大人になるんです。だから先生と同じ一人の人間としてちゃんと向き合って!」
 と、まっすぐに訴えられ二の句が継げなくなります。
 これを読んでると僕は、登場する小学生のガキンチョ連中にも大人たちにも、なんの抵抗も違和感もなく、スムーズに感情移入できてしまえて、おかげで俺はひょっとして精神年齢が小学生レベルで止まってるのか? と、いささかブルーな気分にならないこともないんですが、まあそんなのはともかく、子供が“子供”という別の生き物ではなく、大人がかつてそうであった原型としての彼ら彼女らとして存在してるのなら、大人であるからこそ子供であった自分自身を思い出すのは大切なことなんじゃないかな、と思えたりもします。物事の本質を見るとき、基本に立ち返るのはいつだって重要なことですしね。
 ということで、むしろ大人にこそお奨めしたい作品です。今のとこ1巻が出てるだけだから、もうちょっとエピソード溜まらないと無理だけど、人気出たらアニメ化してほしいよなあ。





↑健兄と同じく女でもプロ野球選手になれることを初めて知った管理人に、よろしかったら拍手でも。





コミック | comments(0) | trackbacks(0)

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday 17:22
- | - | -

コメント

コメントする










この記事のトラックバックURL

http://memento01.jugem.jp/trackback/265

トラックバック