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∀ガンダムにおける君主論・その15

2008.06.13 Friday 06:20
 「君主論」も、本稿を含めて三回となりました。次稿で本論を結んだ後、富野由悠季氏の著書、「∀の癒し」の書評をもって、長々とつづいたこの論考の完結とします。よろしければもう少しだけ、おつき合いください。
 前稿でグエン・ラインフォードのキャラクター論をまとめたのにつづいて、「∀ガンダム」の実質的な主人公であり、ふたりの相違するタイプの君主のうちのひとりである、ディアナ・ソレルについて、今回は第47話「ギンガナム襲来」と第48話「ディアナ帰還」を中心に、語っていきたいと思います。
 ただし、前回同様に論述が前後することになりますが、ご了承をお願いいたします。

 地球に帰還したリリ・ボルジャーノが最初にやったことは、グエン=ギンガナム同盟への抵抗のために、アメリア各領の連合を呼びかける依頼状を作成することでした。その手紙にキエルが、ディアナ・ソレルの署名を入れることで、ディアナ側は戦うための政治的名分を確保したことになります。
 第48話でグエンは、彼がギンガナムと結んだ真意をロランに語って聞かせます。シビリアン・コントロールを離れた月のギンガナム軍が、地球侵攻を目論む危険性を無視できない以上、地球は早急に産業革命を起こして月と対抗できるだけの技術力と軍事力を手に入れなければならず、そのために黒歴史の技術を利用した∀の量産と、本格的にギンガナムと対峙する前に、敵と接触しておく必要があったのだ、と。
 その前の回ではギンガナムと自らの役割を、おとぎ話の北風と太陽になぞらえたりもしていますから、グエンはグエンなりの政治戦略のもとに行動しているのでしょう。ギンガナム軍への対抗措置として、アメリアのミリシャ連合とディアナ・カウンターが手を結ぶというのは、キエルがいう通りに正攻法であり、グエンのやり方は権謀術数と呼べるものです。
 結果さえよければ手段は正当化されるというマキャヴェリズムに則るなら、グエンのやり方も、そのやり方自体はそうそう否定されるものではないでしょう。ただし、手段としての軍事同盟で、彼が自分より強力な者と組んでしまったのは、明らかな致命傷です。
 当のマキャヴェッリの「君主論」からの言葉なのですが、指導者は自分より強い相手と組んで第三者に攻撃をしかけてはならない、というものがあります。そのことによってたとえ勝ったとしても、結局強力なパートナーの捕われ人になってしまうから、ということですが、君主がなににも増して避けなければならないことは、自らの君主としての権威を脅かしかねない相手に、不用意に強大な力を与えること…そして、その力に依存するということでしょう。グエンは自分の器量でギンガナムをコントロールできると過信しますが、ギンガナムのほうはそうではないことを知っています。しかも、グエンの側はギンガナム軍の力に頼らなければならず、そのことも彼は知っています。
 ディアナ側がギンガナムに下手な懐柔策を弄したりせずに、戦力的にはたとえ不安があろうと、正面から戦う方策に出たのは、ディアナ・ソレルという君主の権威と、その君主によって成り立つ国家の体面を守るには、それ以外にないことを知っているからでしょう。
 国とは、統治者と国民と国土と、それらをまとめ、運営するシステムがあるだけでは足りず、国家の尊厳とか威信とか名誉とかいった、精神的な要素に支えられなければ、継続的な存立の不可能なものです。
 強国というのは、いってみれば自国の都合で戦争を始め、終わらせることのできる国のことですが、外交において強者であることは、戦いにおいて勝者であることよりも、ずっと重要でしょう。自国の都合で戦争を回避できるという選択肢がある有利は、戦いが、多くの場合回避不可能な状況に追い込まれて、やむなく始められるものであることを考えれば…そして、いったん始められれば、戦い以前の状態に戻るなど簡単にはできず、たとえ勝ったとしても、国力の消耗によって衰退を免れなかったり、憎悪や怨念といったおそろしく解消の困難な問題を、何十年、何百年と後に残すかもしれないことを考えれば、何事にも代え難いものだといえます。
 戦争の脅威から国を守るには、単に軍事力に頼るだけでなく、他国の評価や、その他国に対する毅然とした態度といったことも、必要不可欠です。歴史を見れば、国の名誉やその精神や文化を守り抜く気概を持った国ほど、外交においてより長期に渡っての安全と繁栄を確保でき、逆に、他国との関係で礼儀を尽くす以上に卑屈であったり、面倒を避けたいがために妥協を繰り返したり、安全を求めすぎるあまりに名誉を投売りしたりするような国は、侵略者につけ入る隙を与えるか、侵略を待たずに内部からの弱体や腐敗というかたちで衰亡を招くというのが、多くの例であったりもします。
 ディアナは、無益で無謀な強がりとは無縁であり、また、その性格からして戦いを好む人物ではありませんが、女王の権威と、国の名誉が大きく損なわれるであろう妥協には、敢然として屈せず、場合によっては戦いをも辞さない気概を持っています。個人的にギンガナムを嫌っているから手を結べないのではなく、女王への侮辱を繰り返す者に、いつまでも甘い顔をするのは女王のとるべき態度ではないから、手を結べないのです。君主を君主たらしめるものを彼女が守る限り、君主を戴く国民は国民たらしめるものを守るでしょう。それが、国家です。

 実をいうと「∀ガンダム」本放送当時、僕はディアナにはあまり感情移入していませんでした。嫌い、というほど強い気持ちもなかったのですが、序盤では指導者としての能力の欠如が目立ったり、性格的にも当り障りなく、どちらかというとその個性が受動的であったりするせいで、むしろ、危機的状況の中でしたたかに才能を開花させるキエルや、有能で誠実な政治家であると同時に、生臭い野心家でもあるグエンなどのほうが、能動的な個性が感じられて魅力的だった、というのが本音です。
 ディアナとグエンを、ふたつの異なる君主タイプとして比較する試みを思いついて、作品を視聴し直したときに、ようやっとディアナのキャラクターの、その受動的であるがゆえに特異な立ち位置に気づいたわけですが、それにしても、ディアナ・ソレルという人物は、たまたま月の女王であったという以外には、ほとんどなにも持たない、ただの女性であったといえるように思います。女王であったことも、彼女個人には身の丈に合わない服でしかなく、その権能を生かす才覚にディアナが恵まれていたかといえば、かなり怪しいといわざるを得ません。なにしろ、彼女の命令で行われた地球帰還作戦は、予想せざる紛争勃発という、大失態を引き起こしてしまったのですから。
 女王の権能によって状況が大きく牽引される展開は、キエルが彼女に成り代わってからのほうが多いので、それをディアナの才覚というわけにはいかないでしょう。また、彼女は立場上政治力を行使することもできず、MSを操縦して戦うこともできません。12話でコレンに対して見せた態度は、ディアナのカリスマを示すものでしたが、それ以外のエピソードではむしろ、本来の彼女がカリスマというより、ごく普通の女性であることを示す描写のほうが、多かったように思います。
 政策というかたちでの行動によって、常に民衆に統治の根拠を示さなければならない大統領型君主と違い、天皇型君主はただ君臨することが、最大にして唯一の責務である以上、受動的な存在になるのは必然ではあります。いい換えるなら、天皇型君主は無能であっても構わないわけで、血統や家系といった、本人のパーソナリティや能力的な部分とはまったく無関係な、生来からの資質、背景といったことが、求められるすべてということになります。
 そのような立場にたまたま生まれついた“普通の女性”とは、いったいどんな気持ちになるものなのでしょうか? 少なくとも女王様扱いされて有頂天というわけには、到底いかないのではないかと、僕には思えます。
 国家という枠組みが“国民”を規定するのであれば、国民である以前に人は、ひとりの個人です。どの国に生まれつくかは選べないものの、国を捨てる選択と、別の国の国民として生きる選択は、普通の人なら持っているし、また、その自由と権利は保障されなければなりません。ただひとり、そうした自由と権利を持たない者が、天皇型君主でしょう。
 “高貴であるがゆえの責務(ノブリス・オブリジェ)”は公人には当然のものですが、生れ落ちた瞬間からそれを背負わされ、私であることを片時も許されず、死ぬまで公に奉仕しなければならない不自由など、彼女と同じく、ごく普通の人間としてのパーソナリティしか持たない僕には、とても自分がその立場になることを想像できないし、想像したくもありません。ましてやディアナは冷凍睡眠によって、数百年もの間その象徴的地位に縛られてきたわけで、それはいってみれば、数百年間人間らしい生き方を望めなかったということでしょう。ディアナをもし普通の女性ではないとするなら、そんな生き方に耐えられた事実をこそ、普通でないというべきです。
 彼女のカリスマは、彼女の偶像としての生き方からくるものであり、おかげで個人としてのディアナ・ソレルには、なんらかの価値を見出す者は、きわめて少数でした。ミランやフィル、ポゥ、キャンサーやムロンなどはいうに及ばずですが、ハリー・オードはディアナの悲しみに気づきつつも、彼自身が崇拝の対象としてのディアナを求めているがゆえに、その悲しみを癒せないことを知っています。それに、彼女を偶像ではなく人として扱うことは、親衛隊隊長の彼の役目ではありませんでした。
 どうやら個人としてのディアナを愛慕しているらしいギンガナムは、しかし、逆にディアナからは忌み嫌われており、彼女が癒しを求められる対象とはなり得ず、かろうじてコレン・ナンダーが、宇宙世紀の長い年月と歴史をその身に刻んでいるというバックグラウンドのために、あるいはそれをやれたかもしれない存在ではあったものの、しかし彼は、ディアナよりもさらに深く傷ついた人物でした。26話でディアナの講じた癒しの戦いによって、本来のパーソナリティをとり戻したコレンが、結局最終話で黒歴史の再来を止めるために戦死してしまったことは、宇宙世紀という古い時代をディアナ同様に体現してきた彼にとって、その時代に受けた傷や悲しみを完全に癒す方法が、それ以外になかった事実を思わせます。ある意味では彼は、宇宙世紀と心中したともいえるでしょう。
 もうひとり、ウィル・ゲイムがいました。死にさえしなければ先代ウィルこそが、ディアナを人間に戻すことができたのかもしれませんが、彼の不慮の死と、それを知ることもなく月へ帰らなければならなかった彼女の運命は、残酷という以外にないものでしょう。ディアナは人としての生き方をこれによって拒絶され、またふたたび偶像を演じることの続行を、余儀なくされたわけです。
 彼女個人にとって不幸だったのは、宇宙世紀の終焉から新時代への移行という転換期に、歴史が彼女を必要としたことでしょう。以前の稿でディアナを“天才”と呼びましたが、厳密には彼女がなんらかの才を有していたからそう呼んだのではなく、たまたま歴史とリンクする存在だったからそう呼ぶしかない、というようなニュアンスでそう呼んだわけです。そもそも“天才”という存在がなぜ特定の時代に現れるのかは、歴史の大きなミステリーですが、本人が望むと望まないとに関わらず(間違いなく望んではいなかったでしょうが)、ディアナの存在や自覚しない意思といったものが、地球と月を巡る関係や時代状況の鍵となって働いたことは事実です。そのため争いは、“鍵”を争点とする側面も持っていました。
 いささか下世話な視点から物語の構造を捉えると、「∀ガンダム」は、ディアナという戦利品を巡る、彼女をとり巻く男たちの獲得競争の物語ともいえると思います。上記のハリーやギンガナム以外では、グエンとロランがその競争の参加者ですが、君主としてディアナと並び立つグエンは、外的存在への旺盛な好奇心と支配欲からディアナの負うバックグラウンド…月の文化を手に入れることを求めてはいたものの、彼女と並び立つがゆえに、そして徹頭徹尾政治家であるがゆえに、性的にはディアナに惹かれることはありませんでした。政治上の敵手に対するのに、性的な視線は邪魔になるからで、ロランをディアナに見立てて、代替的に欲求を満たしていたようなところはあります。したがって、ロランに見限られた時点で、彼は“ディアナ獲得レース”から脱落したことになるでしょう。
 ハリーは職務上の道義からディアナを性的に手に入れることを、本心から望んではいませんでしたし、キエルが現れ願望が満たされたことで、レースをつづける理由を失いました。残るはギンガナムとロランということになったのですが…この勝負はもはや、あらかじめ結果の見えたものだったでしょう。
 しかし、最終的な勝者がロランであったのは、彼が物語における“特異点”であったからだ、とはいえるかもしれません。すでに何度か述べているように、彼は男性であり女性であり、地球人でありムーンレイスでもあるという、ほかの誰とも異なったスタンスに立つキャラクターです。ディアナの悲しみを癒すには、そのような人物でなければならなかったということであったのでしょうし、ディアナを君主として崇拝しながら、個人として愛することもできたというのは、クロスボーダーな柔軟さと開かれた視野を持つ彼だからこそであって、ほかの誰にも不可能だったのではないでしょうか。
 二項並立のテーマが繰り返された物語の中で、ディアナ自身が当初は、彼女の属する月社会という一項からの視野しか持たなかったために、地球帰還作戦の失敗を招きました。後半からディアナは、自分の過ちや罪について言及することがたびたびなのですが、同じような過ちは彼女でなくたって多くの人が犯しています。
 地球と月との戦いにおいて、ボーダーで隔てられた一方の側からしか状況を見ることのなかった者たちの行動が、紛争終結を妨げ、ロスト・マウンテンから掘り出された核ミサイルが、戦いをつづけることの敵味方区別のない損失と悲劇をまざまざと見せつけた後ですら、目を開かない人々はいました。たいていの人は、限られた視野に縛られやすく、固定観念からはなかなか自由になれないものです。
 君主として指導者としてのディアナの不明は、それ自体は人ならおおむね持っていてもおかしくない、ありきたりな愚かさからくるものでしょう。もっとも、そのありきたりさが許されないのが、君主というものなのですが。“普通の女性”であるディアナが、不明の償いのために普通であることから脱しなければならなくなるのが、「∀ガンダム」の物語の骨子だったのかもしれません。そして、彼女の手助けをするロランが、むしろ傑出したパーソナリティの持ち主であったというのが、なんともユニークなところです。
 キエルとの成り代わりによって、身近にロランを得たディアナは、それまで受動的であってまったく構わなかった…つまり、彼女自身普通の女性のままで構わなかった、天皇型君主のあり方から、その立場相応の自分へと短期間に成長していきます。が、それはかなり自分に無理を強いた成長だったのではないでしょうか。
 彼女が地球に降りた本来の目的が、普通の女性らしく生きて死ぬことだったことを思えば、人々から崇められる偶像に内実を伴うための作業など、およそ望んだこととは正反対だったでしょう。自分自身の犯した過ちの修正のためには致し方なかったとはいえ、それを終えた後には、もうそれ以上偶像を務めるのは不可能なほどに、限界を越えて消耗しきっていたのではないかと思えます。
 彼女が演じた“女王ディアナ”という偶像は、彼女自身ではなかったのですが、そのようである“ふり”を、数百年間もつづけたということが、ディアナの名君たるゆえんと呼べるかもしれません。ロランにとってはどちらでもいいことでした。“ふり”をしていたディアナであれ、人間に戻ったディアナであれ、同じように愛し、受け入れることが彼にはできたのです。そして、彼女が最後に自分を看取ってくれる相手に望んだのは、そういう人物でした。
 キエルに成り代わってロランと過ごした“修行期間”中に、いったい何度ディアナは、そのまま女王に戻らずに市井の女として生きたいと思ったでしょうか。実際問題、女王としてはキエルのほうが適任なのですから、すべてを彼女に託して、本人は身の丈にあった服を着ていたほうが、ディアナにとってだけでなく、周囲の人間たちにとってもよかったかもしれません。それができなかったのは、地球に不和と災厄を招いてしまったという自責があったからでしょうし、そして、自分自身の失態を他人に尻拭いさせるような真似を、彼女が自らに許せなかったからでしょう。
 天皇型君主にとって…いや、すべての君主にとって必要な、それがあるからこそ指導者と認められる最大の素質とは、これなのではないでしょうか? 責任を負う覚悟…これがなければ、どんなに高貴な血筋も、どんなに優れた才能も器量も、人の上に立つには不足です。
 ディアナが君主として、ロランを始めとする数多くのムーンレイスたちから、敬われ慕われたのは、まさにこれを持つ女性だったからでしょう。平凡な普通の女性であっても、長年女王を務めてきたら、その立場に伴う責任感は否応なく身につくものなのかもしれませんが、逆にいうなら、そういった類の責任感とは、長い間責任ある地位を守ってきた経験あってのものでしょう。キエルが指導者としての才能ならディアナを越えていたとしても、この経験の差はそうそう簡単に埋まるとは思えませんし、先の女王が耐えつづけてきたのと同じプレッシャーに、次代の女王が耐えられるかは僕にはわかりません。キエルにはハリーという、個人として彼女を愛してくれる人物が傍にいるのですから、ディアナと同じとはいえないのですが。
 ディアナ・ソレルは、傑出した人物ではありませんでした。力も才能もなく、人間が犯しやすい過ちを犯す欠点や愚かさを備えた、ごく普通の人間でした。彼女が持っていたのは与えられた責任や運命を引き受け、決して投げ出さないという覚悟だけでした。
 この物語の主人公とは、そういう人物だったのです。

 自分は傑出した何物も持たない凡庸な人間だと認識するのは、案外と難しいものです。そのことを真に認め、受け入れられるようになったとき、その人は、ある意味では凡庸ではなくなっているともいえるのでしょう。
 グエン・ラインフォードが自己を過信するあまりに、彼の器量では本来コントロール不可能なギンガナムと共謀し墓穴を掘ったのとは対照的に、ディアナの対ギンガナム戦略は、下手に話し合いによるよりも、武力による徹底抗戦に絞られることになります。これは、まずもって自分には彼をコントロールする器量がないという認識が、ディアナにはあったからであり、第12話でコレンにライフルを振りかざしたとき同様、感情優先タイプの敵に説得や懐柔は効果がないことを知っているからでもあるのでしょう。本当のところ、あるいはギンガナムをコントロールできる唯一の人間がいたとしたら、それはディアナにほかならないのですが、たとえそれがわかっていたとしても、彼女の個人的な心情からして、懐柔策を受け入れるのは困難だったと思われます。
 この場合は政治的にも、ギンガナム軍を武力でねじ伏せることが唯一にして最善の方策だったでしょう。先のマキャヴェッリの言葉に倣うなら、自分より強力な同盟者を得たことで、必然、ディアナの政敵であったグエンの政治力は低下を免れず、しかも、地球側はグエンの寝返り(彼のほうにはその認識はなかったのかもしれませんが、“土地”という財産を生活の基盤としている地球人からすれば、それを奪おうとするギンガナムと組んだグエンの行為は、寝返り以外の何物でもありません。かつてムーンレイスの技術者たちを自派に組み入れた際、彼らの地球移住の権利を認めた…“土地”の分与を条件にそれをしたのと、まるっきり逆の行動をこのときとっていることに、彼は無自覚なようです)によって有力な指導者を失っており、悪いいい方をするなら、ディアナにはそこにつけ込む余地がありました。敵の敵は味方、というように、利害対立していたふたつの陣営を結びつけるのに、両者共通の敵ほど利用価値の高い、ありがたい存在はありません。
 キエルがディアナの署名で出された連合依頼は、それにアメリア各領主が同意することで、事実上ディアナ女王の復位を地球側が承認し…ということは、対ギンガナム抵抗勢力のイニシアティヴを、彼女が握ったことになります。これによりグエンは、彼の権力基盤である地球人の支持を、ディアナに横取りされるかたちとなりました。
 指導者としてのディアナにとって、唯一真の脅威といえた政敵がグエンであったことを思えば、彼の判断ミスは願ってもないことだったでしょう。もちろん、グエンが勝手に失脚への道を採ったことに、彼女がしめしめとほくそ笑んだわけではないにしても、結果として自己の能力の限界を知るがゆえに、ギンガナムのような男は手に余る、という、単純にして健全な判断を下した彼女の凡庸は、彼女を助けることとなりました。物語の序盤における、帰還作戦の大失態を招いた凡庸さとこれとに差があるとすれば、初期の彼女のそれが無自覚な凡庸であったのに対し、物語後半におけるそれは自覚的である、ということでしょうか。言葉で説明されただけでは些細な違いでしかないように思えますが、それは実のところ、常人にはなかなかできがたいことでもあります。
 こうして、地球側の支持をとりつけた彼女は、次にソレイユをふたたび指揮下に収めて、月の女王としての復権を完全なものにしなくてはいけません。万が一ギンガナム=グエン同盟がソレイユと結ぶようなことがあった場合、戦略的に大きな不利を強いられることになる以上、また、なによりキエルに時期女王を務めてもらう以上は、女王の支配権を今一度もとの状態に戻しておくのは必要だったでしょう。
 しかし、アメリアの場合と違って書状を送るだけではこれが成らないのは、いったんは反乱というかたちでディアナに背いた、ソレイユの事情を考えれば当然です。月本国が、アグリッパの排除によってディアナの支配下に戻ったおかげで、今のソレイユは事実上単なる逆賊扱いといってよく、しかも、政治的に孤立しているのみならず、ギンガナム軍という予想しなかった敵の出現で、軍事的にも追い詰められている現状です。フィルは政治の才能は皆無といってよく、軍人としても、前線指揮官としてなら優秀でも、司令官の器にはほど遠い男であり、執政官のミランも、状況が切羽詰まれば保身にたやすく走ってしまう、要は対局を見据える視野を持たない政治屋で、この難局を乗り切る力のないことはフィルと同様です。どちらにしてもきわめて官僚的スケールの人物というほかなく、君主には不適任といえます。
 フィル以下の兵士たちが、この状況下で求めているのは、明確なビジョンのもとに命令を下す司令官であり、さらにいうなら、逆賊という肩身の狭い立場から脱出させてくれる指導者…つまり、“国民への復帰”を実現させてくれる君主でしょう。いうまでもなく、それらを与えられるのはディアナしかいません。
 ディアナがコレンの操縦する複葉機で、戦闘の最中にソレイユのムーンレイスたちの前に姿を現したのは、ほとんど無謀ともいえる行為でしたが、彼女の“偶像”としての君主の在り方を思えば、これ以外に方法はなかったとも感じられます。
 天皇型の君主が民衆の前に姿を現すというのは、それ自体が一種政治的な意味合いを持ちます。政治はフィクションである、と以前の稿で僕は述べていますが、第30話でディアナに成り代わったキエルが、キャンサーとムロンを従わせた例を見てもわかる通りに、ムーンレイスの国家像、歴史性という物語を体現する象徴的君主であるディアナ・ソレルは、大統領型君主のグエンとは違い、政策という行動を交換条件に国民支配を担保する存在ではなく、国民の国家への帰属意識を君主が担保する、という存在であるがために、個人としての権利と自由は果てしなく制限されることになります。このことは君主が国民を支配する一方で、それがそのまま国民が君主を支配する構造ともなっています。
 国民は彼らが国民であることの根拠を、ただひとり天皇型君主に保証させているわけで、そのために国民はたびたび、君主の存在の確認を、“権利として”求めます。君主に支配されること、国家への従属を求めることは、逆説的に国民が支配を実行していることとイコールといえるでしょう。
 もし、戦闘中のソレイユに、ディアナがあらかじめ帰還を打診していたなら、予告なしでの帰還よりはるかに面倒なことになっていたはずです。なにしろソレイユでのフィルの支配権の根拠は、曲がりなりにも彼の“反逆行為”にあるのですから、彼にディアナの帰還を許す猶予を与えていたら、それはすなわち彼の体面を傷つけることになるでしょうし、なにより、反逆者であるフィルに、女王が帰還の許可を求めるというのは筋違いというものです。話がこじれればそのままホエールズとソレイユの戦闘という、最悪の事態を招きかねず、時間的な余裕もありませんでした。
 政治的な手続きというのは、事態への対処の弊害にしかならない場合が往々にしてあります。ディアナはここで手続きをすっ飛ばして、国民が持つ問答無用の国家への帰属意識に直接訴えかけるのが、もっとも手っ取り早く効果的であると踏んだのでしょう。彼女は政治家ではないために、政治的な駆け引きや手続きには不得手である代わりに、政治も含めた人の行いも、結局は人の心の作用という不確定な要素に左右されがちであることを、感覚的に体得しているようです。そして、その大衆心理というものを動かすのに、自身の“偶像”的役割…この場合は大衆の前に姿を現すこと…がもっとも強く力を発揮することも。
 ソレイユのデッキに着艦した複葉機から、整列する兵士たちに向かって、ギンガナム討伐の命令を下すディアナの姿は、まさに偶像そのものです。彼女に対し歓呼で迎える群衆を尻目に、小さく息をついた彼女は、これが自分の役割としての最後の責務であることを自覚しているのでしょう。数百年の間、偶像を演じ続けてきたディアナが、人としての生き方を求めて地球に降り…しかしそれが争いを生んだことが地球帰還作戦の失敗だとすれば、その失敗の修復は、ふたたびディアナが偶像を演じることでしか成し得ませんでした。結局のところ、大多数の人々が彼女に求めたのは、ひたすら偶像の役割でしかなく、この場面でディアナが溜め息をついたのは、骨身に染みてそれを痛感した、孤独と寂寥の感情からくるものなのかもしれません。
 そうであるからこそ、この最後の責務を終えた後には、個人として人としての生き方を、もう譲る気持ちにはなれなかったのでしょう。最終話で一私人となったとき、ディアナが私的なわがままでロランを縛ったのは、それまで彼女が背負ってきたものの重さを思えば、僕には許されて然るべきものではないかと思えます。
 物語中では描かれなかったものの、明らかに死を先に控えた彼女は、その死を見守る役にロランを選び、そして彼女が親しみを覚え、好ましいと思っていた人々のひとりであるソシエから、彼を奪いました。最終話のロランがソシエにキスをする場面で、ディアナが目を背けていたのは、自らのエゴによって、確実にひとりの少女が傷つくことに、鈍感ではいられなかったからでしょう。
 生きている人間は生きているからこそ、私的なエゴを発揮する権利があります。代償として、死も含めた生の苦痛を背負うがゆえに。仏教でいうなら生・老・病・死の四苦であり、それらの苦痛を帯びることがイコール生きることである、というのは今さらいうまでもないことです。女神の神格を求められ、数百年を生きたディアナは、その死を受け入れることで、やっと“生まれた”ともいえます。彼女はもはや君主ではなく、永世のときを生きる神話的象徴でもなく、偶像でもありません。人間らしいエゴを備え、そのエゴのためなら男を女から奪うこともする、ごくありきたりな女性です。
 彼女の死は、宇宙世紀という“神話”の死を意味するものでもあるのでしょう。富野監督がガンダム・シリーズで描きつづけた宇宙世紀の終幕が、女神の死と、宇宙へと飛び立った人類の故郷への帰還でもって決着するのは、必然というべきです。「∀ガンダム」ではニュータイプの概念はついに言及されないままでしたが、それはそれでこの物語には当然であるし、おそらく富野由悠季監督はニュータイプを語ることは、慎重に避けていたのではないでしょうか。ある種の神がかった能力や、超常的概念がテーマというよりは、血肉を備えた当たり前の人間の、当たり前の生の営みを描くことが、この作品の眼目だったのでしょうから。いってみればそれは、富野監督からの、
「自分の足下を、自分を取り巻く環境や日常を、人間と自然を、自分を存立させている“当たり前さ”を、今一度振り返ってごらん」
 という、メッセージではないか、と僕には思えます。
 歴史をかたちづくるものが、それら“当たり前”のものたちであるのなら、ディアナの死後に待つ地球と月の未来も、僕らの見慣れた歴史に似かよったものなのだろうと感じられます。
 今までと少しばかりは違うものの、激変というほどではない人類の歴史…万物は循環し、繰り返すものであり、それが自然と生命の、あるべき姿なのでしょう。





↑次稿でやっと本論完結というところまでこぎつけた管理人に、ラストスパートへ向けての激励の拍手を!





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