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RD 潜脳調査室 #6「ラブ・レター」

2008.05.27 Tuesday 21:20
 …………………………ごめん、今回はアニメの感想というより、ただの自分語りになります。

 今年の1月、管理人は心臓を患い手術を受け、一週間入院してました。
 病気そのものは大事にならずに済んだものの、なんせ今まで一度も手術とか入院とかしたことがなかった上に、それが心臓の手術だったってことで、親が無用に大騒ぎしてしまい、わざわざ福岡から押しかけてくるという事態となったんですが…まあ、心配してくれるのは嬉しいんですけどね。ただ、だからといって、親戚一堂やらご近所の人たちやら、果ては僕の知り合いとかにまで、悲壮感たっぷりに連絡を入れてくれたのには、ありがたいを通り越して、はっきり、ありがた迷惑の域であったというべきでしょう。
 おかげで退院後もやたらあっちこっちからお見舞いの品やら手紙やら、はるか大昔に音信不通になったせいで、すぐには誰だか思い出せなかった友人からの電話やらが殺到し、病み上がりを安静にしようって気配りはないのか、あんたらは? と、親を恨む結果となってしまいました。でも、お見舞い自体は嬉しかったんですけど。送ってくださった方々、お気遣いいただいてほんとにありがとうございました。
 そういった中のひとつに、新潟県のとある市から郵送された、一冊の本がありました。
 ページはうっすらと変色しているものの保存状態はよかったらしく、ページにも表紙にも破れや汚れや折り目はなく綺麗でした。タイトルは「太陽の黄金(きん)の林檎」。著者はレイ・ブラッドベリ。小笠原豊樹氏の訳でハヤカワ文庫から出ているやつで、奥付を見ると昭和61年12刷の版とあります。
 その本には手紙が同封されていたんですが、それを読む前に僕は、これが誰の本で、誰から送られてきたものかわかりました…なんだよ、俺の本じゃないか、今頃になって返さなくてもいいのになあ、と。
 ずっと昔、まだ中学生だった頃、当時つき合ってた女の子に、ちょっとこんなの読んでごらんよとばかりに貸した本だったんですね。貸したっきり返してもらうの忘れてたんですけど、それをいいことに二十年以上も借りっぱなしだった彼女のほうも、なかなかいい度胸ではないかなと。
 封書に書かれてた新潟の住所は知らなかったんで、後で親に、なんで彼女に連絡とれたのか訊いてみたところ、知らないけど昔のあんたの同級生で、彼女の連絡先知ってた人が伝えといてくれたんじゃない、みたいなこといわれました。ついでに、あんたも一度くらい同窓会に顔出したら? とかよけいな一言がついてきましたが。
 まあそれはともかく、同封の手紙には、彼女が今どうしてるかとか、社交辞令的にまた会いたいですみたいなことが、短く書かれてました。その内容を詳しくここに書く気はないんですけど、九年前に結婚したという一文を読んだときの僕が、驚きもせず、そら当然だろうなと思った一方で、心の片隅で嘆息しなかった、といったら、まあ嘘になるとだけはいっておきましょう。
 ついでにそのとき思ったのは、感想聞かせてくれと貸した当時には何度もいったんだから、この手紙に本の感想書いといてくれよな、ということでした。そのつもりで貸したのになあ。ひょっとして二十年もの間、一度も目を通してないのか?
 それで…というべきかなんなのか、今現在この本をどうしたらいいもんだか、悩んでます。思春期のこっ恥ずかしい思い出の記念として、手元に残しておくというのも、なんかそれ自体がさらに恥ずかしい行為に思えるし、じゃあ捨てるか売るかとなったら、それはそれで後ろめたいような、名残惜しいような気もするし。ただでさえ今僕が住んでるところは、明日からブックオフの個人支店が始められそうな状態なのに、さらにこの上一冊よけいな本が増えて、正直困ってるんですが。
 …え? 彼女に送り返すか、直接手渡したらって?
 それはあらゆる選択肢の中で、一番僕が選びそうにないやつですな。一応手紙には向こうの住所や電話番号も書かれてたんですけど、ま、彼女も僕が連絡とってくるとは思ってないでしょうし、僕がそういう性格の人間じゃないことは、彼女も知ってるでしょう。
 んで、わざわざ二十年もたってからこの本を返したってことは、これが今の彼女には必要ないものだってことなわけで。だから連絡は入れないし、会いにもいきません。てか、今さら会ってもなに話したらいいかわかんねーですし。
 ただ、やっぱり本の感想だけは聞きたかったかな…と。

 はい、今回はもうお話の内容については触れません。電脳だメタルだ地球律だ関係なしに、普通にいいお話でした。
 ミナモが沙織さんの本を、その息子に届けたとき、彼が本のページに手を置いた場面で、一瞬上記のことを思い出した僕は、不覚にもじんわりときてしまいました。本という、手で触れられる“物”のよさというのは、人の手に渡るうちにそれに書かれてある内容以上のものを伝えるものとなる、というところにあるんじゃないかとか思うんですが。
 恥全開で上のようなことを書いたのも、「太陽の黄金の林檎」(すっげーいい短編集なんでぜひご一読を!)という一冊の本にも、それを貸し借りした経緯から、なんか個人的な物語っぽいものが、作品の内容に付加される、ということをいいたかったからなんですね。
 内容だけが重要なら、書籍の電子化データ化も一向に構わないんですけど、しばしば愛書家という偏屈連中は、本という“物”そのものに、いろいろな思いを刷り込ませてたりするもんなんで。思い入れとか、思い出とか、そんなもんをいろいろと。
 結末を読者自身が書く本、ってのはいい話だなあ、と思いました。「ロード・オブ・ザ・リング」の最後もそんな感じだったっけ。フロドがサムに本を渡して、
「最後の章はおまえが書くんだよ」
 と。
 あの本はフロド自身の物語と、フロドの叔父のビルボの物語と、そしてサムの物語と、ずっとつながるもんなんですよね。最後の章をサムが書いて結末とする、ということで、直接的にそれは物語というものが、“受け継がれるもの”、“人から人へ伝えられていくもの”ということを表してましたが、文章を書かない、ただ読むだけという人にとっても、これは全然同じでしょう。
 本に書かれた物語というのは、それが読者の中に入った時点で、その人自身のものになるわけで。だから、書かれてある内容も重要だけど、それに対して読んだ側がどういう感想を持ったかとか、どんな箇所のどんな場面の、誰のどういった台詞に心を動かされたかとかいった、そういう”受けとり方”というのも、同じくらいかそれ以上に重要ではないでしょうか。いや、別にこれは本に限らんか。僕がこうやってアニメの視聴感想記事を書いてるのも、それが、作品を自分のものにする作業だからでしょう。
 作品とは、それを受けとる側の評価も加わって完成されるもんであり…ということは、“思い入れ”は相当に大切な要素ではないかと思います。本がデータじゃなくて手で触れられ、表紙のイラストやデザインを目で確かめることができ、紙やインクの匂いを嗅ぐことのできる“物”として存在してほしい、と思うのは、思い入れを促すのに、僕にはそのほうがいいから、という、いたって単純な理由からです。

 あの「ラブ・レター」って本が、意図的に最後のページを空白にしたのは、それを読者に埋めてもらうためだったんですが、ミナモがそれをやろうとして、はからずも真理の物語につながったとき、しかし、彼の50年間の空白は、結局そのページを埋めることのできない結末にたどり着きました。
 このエピソードは、
「わたしはほんの少し、眠っていただけだったんですがね…」
 と呟く真理に、言葉もなく泣くしかなかったミナモの反応と同じような、なにか宙ぶらりんな、求めていた決着を得られなかったような、一種の寂寞感を残して終わります。
 今回はそういう結びが一番ふさわしかったんでしょうし、この記事もあんまりごちゃごちゃ感想を述べたりせずに、宙ぶらりんなままで結んだほうがいいかもしれません…って、内容には触れないっていっといて、結局触れちゃってますな…。





↑あの結末じゃミナモは感想文提出できなかったんだろうなあ、とか思う管理人に拍手でもひとつ。





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