Speak Like a Child

世の風潮も時代の流れも無視して、ただ思うままくっちゃべる徒然ブログ。

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

漆原友紀「蟲師」

2008.03.29 Saturday 14:56
 いずれ紹介しようと思っていた「蟲師」です。
 2005年に放映された、長濱博史監督によるアニメ「蟲師」は、個人的に人生五本指に入る傑作シリーズだったと認識しております。放映当時はアニメを見逃したくない、リアルタイムで余韻に浸りながら鑑賞したいと思うあまりに、土曜の深夜5時という放映時間帯に合わせて、一週間のスケジュールを組んでいたくらいでした。
 原作も相当に思い入れある作品なんですけど、エピソードが溜まったら、またぜひ長濱監督に二期つくってほしいよなあ。

 今、チベットのラサで大変なことが起こってますね。
 情報があまりに少ないので、うかつなことはいえないものの、中国政府がチベット自治区に対して行っている文化弾圧が、到底容認し難いものであることは、論を待たないところだと思います。
 弾圧じゃなくて“文化弾圧”ってわざわざいってるのは、ダライ・ラマ法王が(的確にも)そういう表現してるからということと、少数民族弾圧というのは、要はその民族固有の文化や歴史を破壊し、消滅せしめようとする行為だからで。
 結構誤解してる人も少なくないと思いますが、民族ってのは血統や生物学的分類によって規定されるものじゃないんですよね。むしろ、固有の言語や宗教や継続される歴史性が保持されているか、ということのほうが重要だったりするものですが、たとえば日本だったら、天皇の存在が、日本という国の文化や歴史を体現する象徴として継承されることで、そして、日本列島という土地を持ち、他文化圏との間に精神的物理的ボーダーを敷くことで、“民族性”が保持されています(つっても、琉球民族とかアイヌとかの問題もありますが。後、日本人が単一民族ってのは嘘っぱちです)し、ユダヤ人はユダヤ教の信仰でもって、華僑は彼らの言語と文化を守ることで、“民族”たり得ています。反対に、人種的、血統的には同種であるはずのアフリカン・アメリカンとアフリカ大陸に住むアフリカンとは、その文化的格差や歴史の断絶ゆえに、もはや同民族と見なすことは、非現実的です。
 チベット族だって、今じゃ漢民族との混血が進んでおり、同化政策によってチベット語を喋れないチベタンも、相当数いるでしょう。血統の問題ではないからこそ、民族性保持のために、彼らは彼らの文化を必死に守らないといけないわけですね。
 そういや、アイヌの人たちも先住民族認定を求める運動をやっていますが、今の日本で彼らが差別されてるのかとか、血統的に“アイヌ”と呼べる人たちが現存するかとかいったことと、アイヌの民族性を維持することとは、分けて考えるべき問題ではないかと僕は考えております。
 それはそれとして、中国政府のチベットへの行為を考えるにつけ、固有の民族の歴史と文化が、イデオロギーやなんとか主義なんぞという、さして歴史の重みもないような代物によって、地上から消えつつあるという事実には、人はいつから主義なんかのために、命を賭けたり人を殺したりできるようになったんだろうか、との思いになるんですが。
 先天的に政治的人間(ホモ・ポリティクス)としての資質に欠けている僕は、政治に血道を上げることは、どっちかったら人間存在の本質として不自然なんじゃないかな、という気がどうしてもしてしまったり…まだ、カルトにのめり込むほうが自然というか、まあ仕方ないというか。“人を殺す”という行為の動機においても、単純な憎悪や、ある種の病理、狂気といったもののほうが、ずっと人間的だし納得できるような気がしてしまうんですよね。
 古代には人は、今より自然に密着した生き方をしていて、自然災害によっていつ死んだり損害を受けたりするかもわからないから、それへの対策に、荒ぶる神を鎮めるための祭祀、宗教といったものが生まれ、その宗教信仰を求心として農村社会が生まれ、共同体維持のための道徳や法が生まれ…といった具合に、“自然と向き合うこと”を常に意識の軸にしながら、人は生活を成り立たせ、営んでいたように思えます。
 が、近代社会は文明が人を自然から切り離してしまったために、“神”を意識できなくなり、信仰を失い、そのことで道徳も法も揺らいでしまった…そういう社会では、本来あるべき生活の基盤が見失われてしまったも同然なんだから、なんとか生きていく方便として、とりあえず経済とか主義(イズム)思想とかを、かつての“自然”のポジションに据えるしかなかった、と。今の世の中の歪みや混迷も、いまだ自然や神なしで生きていけるほどには成熟していない人類が、にもかからず、自然や神のない時代を生きねばならない矛盾から発することのように、僕には思えます。

 さてと、もうずいぶん長々と前振り書いてんですが…まあ、いつものことですが…なんでこういうこといってるかというとですね、アニメ「蟲師」放映中だったか放映後だったか、2ちゃんねるの「蟲師」スレに、このアニメのビデオを老人ホームにいるおじいちゃんおばあちゃんたちに見せたら、大変に好評だった、という書き込みがあって、それが印象に残っていたからなんですけど。
 「蟲師」について、ご存知ない方のためにちょっと説明を。物語は幕末か明治初期風の時代、日本風の風景を持つ世界が舞台となっています。あくまで“風”なんであって、時代や舞台の特定がされているわけではありません。それらの特定のために、作中の矛盾を指摘したりするのは、野暮というものでしょう。本当のところは遠い未来の、異世界でのお話なのかもしれませんし。
 その世界では“蟲”と呼ばれる下等にして卑小な生物が、しばしば人の生活に影響を及ぼしながら生きており、主人公のギンコは、蟲の生態を探求したり、それらが人に与える弊害に対処したりする“蟲師”として、生業を立てています。シリーズはおおむね彼を中心に、あるいは狂言回しにしながら、各一話完結のエピソード群で構成されます。
 で、上の書き込みなんですが、僕がいいなあと思ったのは、ビデオを見た老人ホームのお年寄りの方たちが、実は話の内容はあんまり理解しないままに喜んでた、ってことが書かれていたからなんですが。
 や、いつもアニメ視聴感想記事で、考察とかやってる僕がこんなこというのもアレですけど、どんな作品でも、いつでも、内容の理解がイコール作品の理解であるとは限らないわけでして。つかね、ここのところ“理解”なんてものは、そんなに重要なことなんだろうか? と、考えることが多くなってたりするんですよね。
 この「蟲師」が、過去の日本の風景を持つ世界を舞台とする必然性ってのは、合理主義で理解の及ばない存在を、
「理解しないまでも受け入れよう」
 という、今ではかなり失われつつある、古い日本的な、そして非合理的な精神を表現する物語だからなのではないかと思います。
 登場人物たちが皆、その世界観に合わせて和装であるのに対し、蟲という“外部”の存在を、比較的にしろ、合理主義的に解明する役割を帯びたギンコが洋装であるのも、彼が物語世界においては、常に蟲と同様、外部の存在であることを示すものでしょう。
 そこら辺りは、登場人物のほとんどが、特定の土地に根づいて暮らす“定住者”であるのに対し、ギンコが、蟲を寄せつけてしまう特殊な体質を持つがゆえに、ひとつの場所に長居できない“放浪者”であることとか、蟲師の中ですらギンコは異端であるらしいとか(「筆の海」)、後、白髪、隻眼、緑の瞳という、異形性が際立つルックスを持っているとか、そういったところからも窺えます。
 で、「蟲師」の基本的なストーリー・ラインって、外部的な要因(蟲)によって閉鎖的共同体やそこに住む人々になんらかの問題が生じ、やはり外部からきた存在(蟲師)が、共同体内からとは違った角度で、それに光を当てて解決する、ってもので。ギンコと蟲とが、どちらも外部的な存在であることで、相似的な関係性を持つのはいうまでもありません。
 先に挙げた老人ホームのお年寄りは、そういうお話の構造なんかはたぶん、あんまし理解しておられないんでしょうけれど、それでも楽しめてしまうというのは、きっと作中に登場する蟲の現象や、物語世界の風景について、僕らよりかずっと馴染み深いからなんでしょう。つまり、彼らは定住者=古い日本の共同体内部の人たちということで。
 対する僕らはというと、おそらく主人公のギンコの目線で、物語を見ることのほうが多いんじゃないでしょうか。近代以降の文明によって、自然から隔絶された環境で暮らす現代の僕らは、日本的な伝統文化や風習に関しては、はっきりいって外部的な存在となっています。まあ、完全に外に弾き出されきってるわけでもないでしょうけど、「蟲師」を見て、こうやって理屈ぶった解説やってる僕からして、近代の西洋的合理主義でもって物語を、“理解する”方法論が身に染みてしまっているわけです。
 本当のところ、“理解する”ことが物語に接する唯一の方法ではないはずなんですよね。以前、これもアニメでの話になりますが、最終話の放映直後に海外のサイトの感想見てたら、「草を踏む音」が、環境破壊へのプロテスト的なメッセージを込めたエピソードだと解説していたのを読んだことがあります。こりゃまた、実に“理解”に偏った感想だなあ、と思わずにいられないんですが、人も蟲も自然も神も物語も、“ただ在るように在るだけ”のものとして楽しむ粋さを、僕らはいつから見失うようになったんだろうか、とか考えてしまいますな。ましてや在るように在るだけのものに、メッセージ性やらイデオロギーやらを、我田引水的に見出すようになるとは。
 現代の僕らの意識の中には、あるいは、理解できないものに対する不寛容さというものがあって、それが、なにに対しても“理解できなければ気が済まない”という感覚につながっているのかも。

 前振りでいったイズム思想というのも、共通する認識の基盤がなければ、人は相互理解できない、という、ある意味納得のいく考え方からくるものなんでしょう。
 ただ、宗教以上にイデオロギーが厄介なのは、宗教が持つ最低限の寛容の精神も持ち合わせないってことで、そして個人的には寛容と理解とは、必ずしも並立するものではない、と僕は考えています。
 もし世界の言語が英語に統一されたりして、人々の共通の認識の基盤ができれば、相互理解は今よりずっと容易になるでしょうし、あるいは、戦争も少なくなるかもしれません。
 とはいえ、そのことで多様性が失われることを許せば、むしろ排外主義や不寛容が徹底され、拡大される危険もあるのではないでしょうか? グローバリズムとやらが進行中の今の世の中で、民族紛争やテロが絶えないことの意味を、僕らはどう捉えたらいいのでしょうか?
 近代的英知を身に着けたがゆえに、なんでもかんでも科学的合理主義で理解できると考えがちな僕らとは違い、かつて、自然に向き合いながら生きてきた人々は、己の無知を受け入れていました。理解できないものを恐れながらも、それはそういうものとして許す、“無知の知”を持っていました。
 寛容とは、理解できない存在を、理解しないまでも認めて許すということです。他者が守っている領分に、必要がない限り不用意に干渉しないということです。それは蟲という得体の知れない存在を、得体の知れないままに認め、許し、愛することさえできるということと、重なるものでしょう。
 蟲の存在できない世界とは、異形のものや理解の及ばないものから人々が遠ざけられ、それらを認識できない世界ということであり、そんな世界で、果たして寛容の精神は生きつづけられるのだろうか? と僕は考えたりもします。





↑我ながら長すぎだろ、と思いつつ、実は「蟲師」に関してはまだまだ書き足りなかったりする管理人に、どうか拍手でも。





コミック | comments(2) | trackbacks(0)

スポンサーサイト

2011.03.22 Tuesday 14:56
- | - | -

コメント

おひさしぶりです。ミントです。

元々原作の大ファンだったので正直アニメ怖かったんが・・蓋を開けてみればまぁ・・全てにおいて最高傑作でした。非効率な紙魚を愛玩している淡幽と虫をなるべく殺さないギンコが旅をしたいと語り合うシーンは特に印象的でした。

なんだか妙な病気になってしまったらしく明日からまた入院になりそうです。病気を憎む、恨む、というよりも淡幽のようでありたいなとこのエントリーを読んで感じました。

お互い体調には気をつけましょう(この前も言ったなこれ;)。
| ミント | 2008/04/15 10:22 PM |
大変深刻なご様子のところ、コメントをいただきまして感謝いたします。この深刻さがただの杞憂であり、後で笑い話になることを、今は願ってやみません。

どんなアニメ作品にも、突っつけばどこかしら綻びがあるのが普通ですけど、「蟲師」はその点、どこも突っつきようのない作品でしたね。“ただ在るように在るだけ”、といって論評を止めてしまいたくなる作品なんて、そうそう出会えるものではないと思います。

>なんだか妙な病気になってしまったらしく明日からまた入院になりそうです。病気を憎む、恨む、というよりも淡幽のようでありたいなとこのエントリーを読んで感じました。

現在置かれている状態に対する、なんらかの向き合い方なり捉え方なりの一端でも、僕の記事を読まれることでつかまれたのでしたら、それは僕にとってもそのまま励みであり、慰めです。
とはいえ、それは僕の記事どうこうというより、「蟲師」という作品の功績なんでしょうけれど。

体調にお気をつけて…と、同じ言葉をお互いに繰り返すことになりますが、本当にお気をつけて。ミントさんのアニメ作品の視聴感想記事を読みたいといった、以前の僕の言葉は、今でも変わっておりません。
ご自愛ください。
| memento | 2008/04/17 7:26 PM |

コメントする










この記事のトラックバックURL

http://memento01.jugem.jp/trackback/222

トラックバック