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レ・ミゼラブル 少女コゼット 第49話「私のお母さん」

2007.12.12 Wednesday 03:36
「嘘は罪です」
「盗みはいけねーな」
 …。
 ま、窃盗犯で脱獄犯のジャン・ヴァルジャンに姦淫の罪でシングルマザーになっちゃったファンティーヌ、手配中の犯罪人をわざと見逃したジャヴェールと、この作品の登場人物はけしからん連中ばっかなんで、今さらつっこむのもアレですけどね…。

 モントルイユ・シュル・メール詣でをする途中、モンフェルメイユの寂れまくったワーテルロー亭に立ち寄ったコゼットとガヴローシュでしたが、その有様にふたりとも複雑な表情してました。彼らにとっちゃあんましいい思い出のない場所だけど、それでも幼少期を過ごした家には違いないしなあ…。
 ひさびさ登場のシスター・サンプリスとアランですが、サンプリスは前回登場から十年ほどたっているのに、外見全然変化なしです。30代くらいで20代のときと見た目の変わらない人って、実際いるもんですしね。つか、管理人もいまだに学生に間違われるんですが。もう、あんま嬉しくないよ、それ…。
 反対にアランは見違えるほど立派な青年になってました…三白眼は相変わらずですが。黒ガラス工場にワーキングマザーのための託児施設を設立するなど、当時のフランス政府なんかよりゃ、よほど先進的な施策行ってる辺り、見事な市長代理ぶりです。パン泥棒→市長づき雑用係→市長代行と、確実にステップアップしてますな。
 こういう施設がファンティーヌが生きてた頃にあったら、とつくづく思わないではいられないんですが、キリスト教の倫理観が、今よりずっと強く人々を縛りつけていた19世紀じゃ、働く女性をケアする、なんて考え方のほうが、よほど異端だったわけで。異端といえば未婚女性が子供を持つことも、聖書に書かれた姦淫の罪を犯したということで、今よりもはるかに肩身の狭い行為でした。この作品の前半でファンティーヌが娘のいることを隠しまくってたのも、社会的な迫害を避けるためには致し方なかった面もあります。
 ファンティーヌとヴァルジャンという、“罪人”を両親に持っていたという点では、コゼットは、テナルディエの悪党夫婦を両親に持ったエポニーヌと、境遇は変わらなかったといえるかもしれません。けど、エポのほうが求めていた愛情を得られないまま死ななくちゃいけなかったのとは違い、幼い頃の虐待から抜け出して、今のコゼットは幸せがすでに確定しています。
 まあエポの場合、物事を悲観的に捉えがちなあの性格が、実際に不運や不幸を呼び寄せてしまい、結果、自己否定につながってますます悲観を強くする、みたいな悪循環に陥ってた(現に彼女と境遇的に同じなはずのガヴは、たくましく前向きに生きてましたし)ようなところがあるんですけど、このふたりの決定的な差というのは、やっぱ親から愛情を注がれた結果による、自信や精神的な余裕のあるなしの差なのかなあ、とか感じます。
 自分が誰かに愛され、必要とされているという確信さえあれば、人はそうそう悲観や絶望に押しつぶされることはないんですよね。実際、ワーテルロー亭での五年にも渡る虐待による肉体的な苦痛、物質的な欠乏も、コゼットの自信と心の健康さ、豊かさを損なうことはありませんでした。自己否定の感情なんて、きっとコゼには無縁だったんじゃないでしょうか。
 今回のお話の途中でガヴローシュが、実の親には愛されなかったけど、でもそれでコゼットを母親にできてよかった、てなこといってましたが、ガヴだって子供ながらにひどい苦労を背負い込まなくちゃいけなかったのに、テナルディエの親父を脱獄させたときには、
「こんな時代だけど、俺は生まれてきてよかったと思ってる」
 なんていえてる辺り、どうやら自己否定なんぞに囚われたことはなさそうです。それもこれもコゼを母親として、彼女の愛情を実感しながら育ったことが、彼の中に強くしなやかな自我を、形成させてたからでしょう。
 この手の強い自我を持てなかったエポは、自分が愛されるに足る存在か常に疑い、不安に怯えなくてはいけませんでした。物質的にはコゼよりよほど恵まれた環境で育ったのに、一番肝心なものに恵まれ損なったことで、生涯が決定づけられてしまったところは、確かにありそうです。
 思うに、物質的な欠乏は精神的な満足で埋め合わせが効くとしても、その逆はないんじゃないでしょうか? そら、「衣食足りて礼節を知る」ってなこともいいますけど、同時に「人はパンのみにて生きるにあらず」ともいうし、それに、僕が見たり聞いたり、あるいは個人的に経験したりしたことからも、物理的に満たされた状態でいるときのほうが、かえって心の欠乏をより意識してしまい、空虚感や孤独に襲われる、なんてことが多いような気がします。
 決して幸せな子供時代を送ったとはいえなかったにしろ、ありったけの愛を母親から注がれたおかげで、たくましい自我を持ち、深刻な心の飢えに悩まされず、虐待で心を壊されることもなかったコゼットは、幸せな人だといえるんじゃないかな、と…その愛情に育まれたコゼを母として育ったガヴローシュも、やっぱり幸せなやつではないでしょうか。
 ってことはファンティーヌはその愛によって、ガヴも救ったことになるのか。てか、ジャン・ヴァルジャンだって、彼女の死をきっかけとして行動を起こし、コゼットという愛情の対象を授かって、愛されたんだから、間接的に彼女に救われたひとりでしょう。

 社会的に日陰の存在で、貧しく、無力な女性であったファンティーヌが娘に与えられるものといったら、愛しかありませんでした。けど、その愛が今のコゼットの幸福を導いたことを考えれば、彼女の払った多くの犠牲は、その払った分だけ報われた、と捉えて間違いではないと感じられます。
 ファンティーヌの死後から起こった全ての出来事も、それが彼女の願いの実現のために神がヴァルジャン初め多くの人々を動かし、演出した物語だったとするなら、今回コゼットが、自分の幸せと母への愛を墓前に告げるラストによって、物語は一応の終幕を迎えたといえるでしょう。これからの幸せはコゼットが、マリウスとともに築いていくことに…そして、ファンティーヌがそうしたように、子供にその幸せと愛を与えることで、彼女自身の物語を紡いでいくことになるんだと思います。
 女性は子供を産み、育てることで、自らの人生にひとつの物語を創出できるんですよね。その意味じゃ、僕ら男には叶わない大きな存在の意義と権利を授かってるんだなあ、と感じます。いや、別に子供を産む産まないで女性の価値が決まるわけでもないですけど、でも、僕がここに存在できているのも、女性が産んでくれたからだ、という事実を思えば、その物語の重要性の前に、男の存在価値っていったいなんなんだろうか? とか疑問を抱きかねないほどです。
 え? 父親になってみればわかるって? そりゃそうでしょうけど、まず相手がいないことにはね…。
 ファンティーヌみたいな女性がいたら、ぜひ会ってみたいと思うんですけど、どこかにいないっすかねえ…。





↑次回予告に出てきた神父さんが、幼い頃コゼに字を教えたあの人に似てる気がする管理人に拍手でもどうぞ。





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