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レ・ミゼラブル 少女コゼット 第47話「心の絆」

2007.11.26 Monday 19:02
 こりゃまた、突っ込み甲斐のある作画だなあ…。
 まあ、絵的には多少アレですが、案外コゼットの萌え要素が炸裂してて、個人的には結構よかったんじゃないかなと思います。

 革命が失敗した後にしちゃ、パリの様子がずいぶん穏やかで平和じゃないか? と思われた視聴者が多いかと思いますが…てか、国家への立派な反逆者であるマリウスが、なんで大手を振って街中を歩けるんだ? ってな疑問を持った方もいらっしゃるでしょうが、六月暴動当時の国王であった“株屋の王”ことルイ・フィリップは、前王シャルル10世よりは国民寄りの王で、暴動に参加した者には恩赦を与え、罪を問わないかたちで、国民の不満のこれ以上の拡大を防ぐ方策をとったわけでして。
 だから、暴動後ちっとばっかしは国民への歩み寄りもあった、と考えるべきでしょう。もっとも、それで歴史の流れを変えられるわけもなく、1848年、二月革命の勃発をもって、王政(いわゆるところの七月王政)は完全に廃止されます。ABCの友たちがやったことは無駄ではなかった、ということですな。
 ついでだからもうちょっとばかり、ABCのやったことの意義なんかについて。
 オルレアン王朝の一代限りの王であったルイ・フィリップは、1830年の七月革命で、貴族寄りの政策を露骨に展開した反動主義者、シャルル10世を廃し、市民の富裕層であるブルジョワジーに推されて即位します。が、なにしろその王政の基盤がブルジョワの支持にあったことから、彼の政策も、つまるところは特権階級である貴族の優遇策から、金持ち階級のブルジョワ優遇策へと移行したに過ぎず、一般庶民は相も変わらず貧困に喘いでいたわけです。
 1789年のフランス大革命からこっち、革命といえばブルジョワが主導してきました。以前の記事に書いたような背景から、その当時の庶民は、革命を起こそうなんて発想すらなく、なにをどうやったらいいかもわからないから、ごく自然にそうなったんですが、これまた以前に書いたように、おかげで革命も、新興階級であるブルジョワの政治闘争的側面を、色濃くまとうことになったわけでして。
 しかし、その様相が変わり始めたのは、あくまで僕の私見ですけど、ABCの友たちが関わった、六月暴動前後からだったんじゃないでしょうか。暴動自体はやはり、ブルジョワが主導していたんですけど、これは明らかに庶民の不満と怒りが爆発した結果としての事件であり、つまりは、
「ブルジョワのブルジョワによるブルジョワのための革命」
 から、庶民のそれへと移行する兆候であったと…いってみればこの事件を機に、“庶民”から“市民”への本格的な目覚めが始まったわけですな。
 ロシア革命における“血の日曜日”事件とか、日本だったら明治維新における池田屋事件などのように、革命の成功にはその発端としての、起爆剤となるようなイベントがしばしば必要になるものですけど、この六月暴動はその意味で、王政廃止へ至るに必須のプロセスだったのではないか、と思えます。
 しかも、社会的にはむしろ、自分らの階級の没落を招くであろうことを自覚しながら、それでも命を賭けて世の中を変えようとした、アンジョルラスたち“誇り高きブルジョワ”の姿には、武士階級の廃止のために積極的に倒幕運動を展開した幕末の志士たちにも似た、なんやら武士道的とでも呼びたくなるような、崇高で純粋な理想を見出せたりもして…まあ、市民が目覚めきるまでには、まだもうちょっと時間がかかるんですけど、目覚めたとき…つまり第44話でジャン・ヴァルジャンのいった“火種”を灯す行為が、やがて大きな灯りになったとき、その火はフランス一国に留まらず、ヨーロッパ中に広がっていくことになります。

 で、ようやっと回復しつつあるマリウスですが、身体的にはすでに危険を脱したものの、医師からはこの後は本人の生きる意欲が鍵となる、みたいなこといわれ、ジルノルマン爺さんは、
「それはどうやったら手に入る?」
 などと自問しています。
 実際、意識が戻っていない頃からマリの脳裏を占めるのは死者たち…アンジョルラスやクールフェラックといった仲間たちのことで、彼らに置いていかれる悪夢に苦しめられ、目覚めてからも革命の赤いスカーフをぼんやりと見つめるなど、明らかにその意識は、死者たちに引っぱられています。
 ベトナム戦争の帰還兵…特に激戦地からの数少ない生き残りの人たちなんかは、皆例外なく自分だけが生き残ったことに後ろめたさを覚え、それがひどくなると、深刻なPTSDにまでなってしまうケースが往々にしてあるそうなんですが…まあ確かにあの暴動によって、多くの親しい人々の死を経験した前と後とでは、同じ人間でいられるはずもないでしょう。マリウスにとってはある意味、死ぬよりも生き残ったことのほうが、辛い事実だったのかもしれません。
 といって、
「なんで僕をあのまま死なせてくれなかった!?」
 と自己陶酔的に激昂するような真似も、すでにしてできない辺りに、生きたくても生きられなかったたくさんの命を目撃した彼の、複雑な心中が窺えます。マリウスひとりの回復をコゼットやジルノルマンや伯母さん、ジルノルマン家の使用人なども含めた人たちが願ったように、あの暴動で死んでいったひとりひとりに、いったいどれだけの、彼らの生存を願っていた人々がいたんだろうか? と思いを巡らせれば、ただ自分の思いだけで自らの死期を早めることが、どんなにエゴイスティックな行為か、痛感せずにはいられなかったでしょう。
 ということはマリウス的には、激しいジレンマに襲われるしかないわけで。自分自身の思いとしてなら、生死をともにすると誓った、仲間たちのもとにいきたいと願いながらも、その願いが孕むエゴイズムを自らに許すことも今の彼にはできず…こういう心理は悪くすれば、今後の彼を、ただの“生ける屍”にしてしまっていたかもしれません。
 原作ではここら辺りの問題は触れられていなかったわけですが、アニメでマリに、死んだ仲間たちのことを回想させ、こういったジレンマを与えたのは、いかにも現代的なアレンジだと思います。また、このアレンジを、同じアニメ・オリジナルのアレンジであった、“コゼットに母親の記憶がある”というのを絡ませることで処理したのは、非常に巧みだったと思います。
 以前、第14話での感想で僕は、ジャン・ヴァルジャンとコゼットは、それぞれの悲劇を経験したことで精神的同志となった、と述べたんですが、それに倣っていうなら今回、マリウスは多くの仲間たちの死とその悲しみを経験したことで、母親を失ったコゼットと、やっと同じ立場に立てたのではないかと…マリはすでに父親の死を経験してはいるんですが、ポンメルシー男爵は彼にとっては記憶に薄い人物で(だから“父親探し”の必要があったんですが)、その悲しみも、身を裂くような実感を伴ったものではなく、どっちかといったら漠然と観念的なものだったように思います。
 実際のところ、その父親の生涯を追体験しようとする過程での副産物としての、革命への参加があったのなら、マリにとって革命の理想も、あくまで観念でしかなかったのではないでしょうか。まあ、それは彼に限らずABCの友全員にいえたことなんですけど。庶民の苦しみをリアルに体験したわけではない彼らの理想が、そういうものになってしまうのはむしろ当然だし、彼らをそのことで責めるのは、いくらなんでも酷というものでしょう。
 階級的な問題から、庶民の苦しみを肌身でもって理解することは叶わなくても、親しい人の死の苦しみは、階級や立場の差を越えた共通のものとして理解できます。かつてコゼットが苦しんだのと同じ苦しみを経験したマリウスは、そうであるからこそ、コゼットと本当の意味で理解し合えるようになったのではないかな、と。
 そういえば、彼女がファンティーヌの死を心から受け入れられるようになったのは、リュクサンブール公園の思い出の場所を訪れることによってでしたけど、マリウスもコラントを訪れることでしか、仲間たちの死を受け入れることはできなかったんでしょう。悪くすればそのことで、よけいに死者に引っぱられることになってたかもしれませんが、幸いにしてアンジョルラスは彼を呼び寄せたくはなかったみたいです。おまけに傍らにはコゼットもいましたし。

 死人が語りかけるなんてのは、実に非科学的で、そんなことあり得ねーよ、と思えるんですけど、非科学的なのはその通りかもしれませんが、実はあり得ないことではなかったりするんですよね。
 死人は消滅したわけじゃなく存在のあり方を変えただけだ、と思えば、それはじゅうぶんにあり得ることで…生きてる人間だって、僕らがその人を認識しているのは、所詮は自分の中にあるその人のイメージでしかないんですから、実際の彼ないし彼女そのものであるかは誰にもわからない…いや、自分自身ですら、その実像を捉えられるかはなはだ怪しいことを考えれば、“存在”なんて立証不可能なものなのかもしれません。
 じゃあ、存在するってどういうことなんだ? ってことになるんですけど、
「我思う、ゆえに我在り」
 という言葉があるように、存在とはそもそも認識されることで成立するものだ、とする考え方もあります。
 であれば、死んでしまった人も、記憶を拠り所にその存在を認識できるのであれば、その人は存在している、と考えて差し支えないのではないでしょうか? 傍らにいていつでも会えた人が、遠くにいってしまって会えなくなっただけだ、というようなものだと。
 逆にいうなら、認識する人がいなくなったときには、記憶の中の死者たちも消えてしまうことになるんですが、だからこそコゼットもマリウスも、生きつづける義務があるのだと思います。
 このふたりが結婚して子供が生まれたとき、いつかマリウスは、子供に仲間たちのことを話すんじゃないかという気がするんですが、その子供が父親の語った勇敢な人たちを記憶に留め、それをまた誰かに語り…というふうに、人の“存在”とは、そうやって受け継がれていくものなのかもしれません。


 追記
 白状しますと、つい最近この「レ・ミゼラブル」の時代背景をざっと調べ直してみるまで、六月暴動当時の国王はシャルル10世で、したがってブルボン王朝もまだ存続していると勘違いしてました。以前の記事なんかは、その勘違いのまま書いてたりもして…アハハハハ。
 どうもすみません…。

 さらに追記
 余談ですけど、七月革命までのフランスにおける市民革命は、ブルジョワジー主導であったがゆえに“ブルジョワ革命”だとして、ロシア革命等の共産主義革命とは区別すべきだ、とする歴史観もあります。
 革命の推進主体であったブルジョワジーが“市民”であったのは19世紀までで、以降はむしろ、労働者が倒すべき体制側の階級として、定義づけられていくようになるわけでして。
 二月革命ではその当初からルイ・ブランなどの社会主義者たちが、かつてのブルジョワに代わる革命の主導者として活躍しましたが、そのことをもって共産主義革命の始まりとするなら、六月暴動は、時代の新しい段階へ移る流れの中で起こった、“ブルジョワジー=市民”という概念の、終わりを象徴する事件だったのではないか、と僕は捉えたりもしています。





↑ある意味歴史を学ぶのも、死者に語りかけたり語りかけられたりするようなもんだよなあ、と思う管理人によろしければ拍手でも。





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