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熊倉隆敏「もっけ」

2007.09.13 Thursday 23:26
 10月からアニメ化だそうで。いや、めでたい。好きなんすよ、この作品。
 しかし、アフタヌーン系の漫画原作は「蟲師」を筆頭に「げんしけん」(祝・第二シリーズ開始)にしろ「おお振り」にしろ良作アニメが多いんで今から楽しみですな。

 「キネマ旬報」の記事を読んで知ったんですが、タランティーノの映画「パルプ・フィクション」の脚本には、実際に映画には使われなかったけど、ユマ・サーマンの台詞にこんなのがあったそうです。
「この世には二種類の人間がいる。プレスリー人間とビートルズ人間と。プレスリー人間がビートルズが好きなことは多いし、その逆もあるけれど、両方とも同じくらい好きって人はいない」
 この台詞を僕流にアレンジしていわせてもらうなら、
「この世には二種類の人間がいる。遊園地にいってジェットコースターに乗る人間とお化け屋敷に入る人間と」
 ってのになるでしょうか。ジェットコースター大好きな人でお化け屋敷も同じくらい好きって人には、僕は今まであんまり出会ったことがありません。両方とも嫌いだって人には会いますけど。
 もちろん、これは僕自身にも当てはまることで、僕ははっきり、遊園地じゃお化け屋敷に入るタイプの人間です。つか、ジェットコースターなんか乗れるかよ。女の子はあれにキャーキャー大喜びで乗ったりしますけど、まったくもって僕には理解不能、不可知の心理といわざるを得ません。
 ジェットコースターが怖いってのは、現実に起こり得る災害とか事故を怖がる心理と同じなんすよ。高いところから落下しそうだったり、超高速で動く物体から振り落とされそうだったり、って物理的な恐怖は、物理的なだけに現実的な恐怖を伴うわけで、それが怖くない、むしろ楽しいなんつーのは、どっかおかしいとしかいいようがないわけでして。
 対するお化け屋敷の恐怖は、人知を超えた超自然的なものに対する恐怖であって、それって別に普段の僕らの日常生活じゃ、まず遭遇しそうにない恐怖ですからね。僕が個人的にジェットコースターが怖いのは、つまりきっちり現実認識ができてるって証拠でもあって、おかしなことでもなんでもないんですよ、ええ。
 だから僕が絶叫マシンに無理矢理乗せられた挙句、遊園地のベンチでぐったりしてるのを見ても、
「男のくせにだらしなーい」
 とか決していうんじゃねーぞコン畜生。

 …なんか若干私情が混じったような気もしますが、そもそも僕がお化け屋敷なら大丈夫だっていうのは、生まれついて霊感なるもんをまったく持たないこともあるんだろうな、と思います。幽霊も人魂も見たことないし、写真撮ったら変な白い影が映ってたよ、てな経験もありません。大学の頃、友人とふざけて某有名な心霊スポットに深夜ドライブに出かけたことがありますが、普通に楽しく過ごしただけでした。もちろんUFOも見たことありません。
 おかげでいたって即物的かつ形而下的思考と感性を持つ、クソ面白くもない人間に育った次第ですが、心霊現象だ超能力だと、むやみに騒ぎ立てる人たちに対しては、いささか冷ややかーな気持ちを持つ一方で、妖怪や勿怪といった存在には、常に、どっかしら惹かれるものを感じるのも確かです。それらを信じる信じないとかはともかく、“人外のものたち”の存在が、見えないながらも僕らの生活に知らず知らずのうちに影響を与えている、という考え方が好きなんですよね。僕らのこの世界には多様な側面があるんだ、って認識させてくれるようで。
 この「もっけ」は、そんな僕の嗜好に、ある意味ドンピシャな作品といえます。
 これ以上はないってくらいにシンプルなタイトル通り、勿怪が出てくるお話なんですが、内容もまたシンプルというか、出てきたからってその勿怪たちと人との間に“なにか”が起こるわけでもない、というのが特徴的だと思うわけでして。
 主人公は中学2年生の檜原静流(しずる)と小学5年生の瑞生(みずき)の姉妹。彼女らはそれぞれ、勿怪を見ることのできる“見鬼”と勿怪にとり憑かれやすい“憑坐(よりよし)”という、特殊な体質を生まれつき持っています。
 その体質のために、都会の凶悪な妖怪たちの跋扈する環境では、悪い影響があると考えた彼女らの爺さんは、田舎の自分の家にふたりを引きとって育てているんですが、この爺さんも、祈祷によって妖怪を祓う、いわゆる“拝み屋”の仕事を副業でやってたりします。お話はこの爺さんのもとで暮らす姉妹が、勿怪たちとの関わりの中で、いたって穏当な成長をする様が描かれる、というもので。
 アニメの公式サイトのトップに、
「やつらは居ンのが当たり前」
 と、爺さんの台詞が出てるように、この作品では妖怪は単に見えないだけで、ごく普通に僕らの日常にいて活動しており、その彼らの生態が、ときに僕らの生活と交差して影響を与えることもある、というコンセプトでもって扱われています。“当たり前”という言葉通りに、そのことは特別でもなんでもなく、だから静流と瑞生も、それぞれ特殊な体質と能力を持ってはいても、それで目の醒めるような冒険やら活躍やらをするわけでもありません。
 だいたい、拝み屋の檜原の爺さんにしたって、妖怪が誰かにとり憑いてること知ったとしても、基本は「ほっとく」ってスタンスだし。頼まれて御祓いをやる場合にも、
「拝んで離れていただくんだよ。誰でも彼でも祓えるような大層な身分じゃねェ」
 って姿勢だし。
 つまり、妖怪物の多くの作品に見られる、人間に害を及ぼすスーパーナチュラルな存在を、同じくスーパーナチュラルなパワーを持った人間が退治する、といった、ヒロイックなお話じゃなく、隣人であり、同じ世界を分け合って暮らしている彼ら人外のものたちとの、“つき合い方”の物語なわけですな。
 で、思うんですけど、自分と異なる存在を、それが自分と異なるから害ある存在と見なし、対立したり排除したりって思想は、もともとは西洋からきたもんなんだよな。日本じゃ妖怪や勿怪たちの存在は当たり前に信じられてきて、彼らの異なった生態からくる害から身を守るためには、拝んだりお供え物をしたりした…つまり、人外のものたちとの“対話”によって共存をはかろうとしてた伝統があるわけで。
 それ考えたら、日本の古人たちというのは、異文化を異文化としてそのまま受け入れられていた分、実は現代の僕らよりか、よっぽど“国際感覚”に長けていたのかもしれません。
 妖怪を信じられなくなった世界というのはある意味、異なった価値観を認識できなくなった世界ということでもあり、そしてそれは、この世界が多様性を失いつつあるってことでもあって、なんか僕には寂しいことのようにも思えます。同時にそれでいいのかなあ、と感じたりもして。
 ただ、この作品には、そうした時代や世の中や人の意識の変化といったものも、一概に否定したり、悪い傾向として断罪したりするのでなく、
「だがそうした変化はまた、俺らが生きてる証でもあるのよ」
 と檜原の爺さんがいうように、変化や多様性を含んだ世界や人生そのものに対する、穏やかな肯定のニュアンスに占められています。
 それに、いくら時代が変わったところで、妖怪たちに代表される、この国の古い文化や伝統を忘れないでいる人たちってのも、常に少なからずいるわけだしな。21世紀のこの時代に、こんな作品が漫画やアニメという手法で表現され、愛好されてることが、そのなによりの証拠なんじゃないか、と、僕には思えます。

 ってわけで、アニメに先駆けてちょろっと紹介いたしましたが、興味を持たれた方はどうぞご一読を。ああでも、アニメがあるんだったら、そっちを見てから原作読んでみよう、って人のほうが多いか?
 今回のコミック紹介は、タイミングを間違えたかもしらんなあ…。





↑とかいっててこの時期に紹介してんだから、どうせ確信犯だろ、とかいう突っ込みはスルーさせていただく管理人にどうか拍手を!





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