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「∀ガンダム」における君主論・その11

2007.09.02 Sunday 11:34
 ディアナを乗せたジャンダルムはハリーの追跡を振り切って成層圏外へ…そしてグエンの指揮するウィルゲムもまた、黒歴史時代以降の地球人としては初めて、宇宙へと飛び立ちます。
 黒歴史が地球人類を、その暗黒の記憶によって地上に縛りつけていた呪いだったとするなら、人々はついに、その呪いから解き放たれたといえるでしょう。もっともその開放を促したのも、戦争という、別の意味での呪縛ではあったのですが。
 今回は第34話「飛べ! 成層圏」から第36話「ミリシャ宇宙決戦」まで。宇宙を初めて経験する地球人と、それを迎えるムーンレイスの時代の変化と、この物語におけるセクシュアリティのテーマについて語ります。

 塩野七生氏によれば、「君主論」の著者であるニッコロ・マキャヴェッリは、指導者に必要な資質として次の三つの条件を挙げているそうです。
 第一に力量(Virtù)。ヴィルトゥ、とは、英語のVirtueの語源でもあり、そのまま訳すなら“徳”となります。が、なにしろ後世から権謀術数主義(実際には、現実を見据えた上での柔軟な政治的思考や技術、というほうが正しいと思いますが)と呼ばれることになるマキャヴェリズムを提唱した政治思想家のいうことですから、指導者に対してありきたりな仁愛などの徳性を求めていたわけではないでしょう。この場合のVirtùは、人徳などというより、人を動かす器量や技量、といったニュアンスで受けとるほうが適切に思います。
 第二に好運(Fortuna)。別に指導者に限らず、なにかの事業なりを成功に導く際には、誰にでもこれは必要不可欠な要素でしょう。
 第三が時代への適合性(Necessità)。つまりマキャヴェッリの考えでは、力量や運に恵まれていても、時代の要請に応えられない指導者は、指導者に不適格だということになります。
 「∀ガンダム」で描かれた時代は、月と地球というふたつの文化圏が、それぞれ社会的文明的に大きな転換点を迎えた激動の時代でした。第18話でキエルは、黒歴史の悲劇の後地球の人々は、地球再建の活力を得るためにその悲劇の記憶を封印することで対処した、と述べています。つらく、過酷な記憶だけでは人は、困難な事業に立ち向かうことができないために、本能レベルでそうした記憶を封印し、ときには歴史そのものを書き換えることもしたのだ、と。
 宇宙世紀が、宇宙という“外部”へ向かって人々が進出していった冒険と開拓の時代だったとすれば、その果ての地球文明崩壊という結末は、人々に“外部”への関わりを断ち切らせる方向へと歴史を動かしました。以前に、文明や社会はそれ自体がひとつの人格や寿命を持つものだ、と僕はいいましたが、黒歴史以降の地球文明は、きわめて内向きの人格を持っていた、といえるかもしれません。
 地球の人々にとっては、宇宙世紀が失敗の歴史であると記憶に刻みつけられたがゆえに、それに関連する歴史的記述は、“黒歴史”という名で封じられ、それに触れることは長い間タブーとされ、アデスカの世界樹伝説などの曖昧な記録にかたちを変えて、わずかに残るのみとなっていたのです。当然のごとく地球人は、宇宙移民者の子孫であるムーンレイスのことも、記憶から(おそらく意識的に)消し去っていました。
 ひるがえっていうなら、黒歴史が地球の人々にとっては呪縛であった、ということにもなるでしょう。が、人と同じく固有の人格を持つ固有の文明に、やはり人と同じく固有の寿命があるように、グエンがその野心でもって産業革命を志す時代には、すでにその呪縛もおおよそ効力を失って、人々はふたたび空を…さらには宇宙を目指すようになっています。ある意味では、人間は同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれませんが、しかし歴史というものは、いつまでも同じ場所で留まっていることのできないものです。
 だから、この時代の転換期に、地球にグエン・ラインフォード、月にディアナ・ソレルという、マキャヴェッリが指導者に求めた第三の資質である、“時代の要請に応える才能”を有した君主がいたことは、やはり幸いだったというべきでしょう。彼らに第一と第二の資質が備わっているかは置くにしても、確かに、その時代において彼らに求められることを彼らは為し、(多くの犠牲を伴いはしたものの)結果として、新しい時代へと人々を導くことになったのですから。
 前稿で僕は、グエンがアデスカの民の世界樹伝説信仰を、己の政治目的以上には尊重していない、といいましたが、それも、若く野心的で新しい時代のリーダーたらんと志す彼にすれば、むしろ当然の姿勢なのかもしれません。世界樹伝説は宇宙世紀時代の歴史的事実を、それに対する忌まわしい記憶のために、人々が神話というかたちに歪曲してしまった結果でもあります。それをいうならホワイト・ドールもそうなのですが、成人の儀式の神聖な偶像(イコン)であるそれを、グエンは、いたって即物的に政治利用するだけでした。
 そもそも彼に、なにかしらの信仰心なるものがあるのかすら疑問ですが、以前にジョゼフが、マウンテン・サイクルでの儀式に対して懐疑的な発言をしていたのと、同様の心情が、あるいは彼にはあるのかもしれません。そういえばずっと後の話になりますが、ギンガナム側に寝返ったグエンが、ジョゼフを自軍に誘おうとした際に彼の野心に同調し、ほめる場面があります。ジョゼフはアデスカ編でも見られるように、どうも土着文化に愛憎入り混じった感情を持っており(それは彼自身が、土着的な文化を背負う身だからなのかもしれませんが)、それゆえに土着的なものから離れ、近代社会の中で上昇していこうとする心理的傾向が強いように感じられます。
 彼とは立場が大きく異なるものの、グエンも、素朴な民間信仰といったものにはあまり肯定的ではないようです。しかし、そうであるがゆえに迷信や偏見から自由だともいえるでしょう。ムーンレイスとその文化に対し、彼がほかの多くの人々と違い否定的感情を持たないのは…いや、むしろ彼個人としてなら好意的だとさえいっていいのは、宇宙移民者の歴史、黒歴史の呪縛といったものを、呪縛とは捉えていないからではないでしょうか? そしてそれは単に彼だけではなく、シド、ジョゼフ、ラダラム、メシェー、それにソシエといった、決して少なくない数の人々とも共有する視点であり、つまりは時代的な感性とも呼べると思います。地球文明は黒歴史時代という幼年期の終わりを迎えつつあった頃で、その時代の変化とともに、人々の意識も変化を見せていた頃でした。
 ちょうどその時期に、ムーンレイスが、その圧倒的な科学力を誇示しながら地球に降りてきたことが、地球人の意識の変化を加速させたのだろうことも容易に想像できます。なにしろ複葉機をやっと飛ばせる時代から、一年を経ずして宇宙船を飛ばす時代にまで、一気にジャンプしたのですから。
 だからグエンが、さらにその先にまで突き進みたいと望んだとしても、人類の欲の深さを考えるなら、感情的には理解できることでしょう。結局のところその欲が、彼を敗北させることにもなったのですが。
 とはいえ、人が進化の段階を上るときに、“欲”という要素は、絶対に必要不可欠なものでもあり、この時代の人々にとっては、グエンが欲深い人間であったことは、幸運だったといえるかもしれません。

 ウィルゲムがマニューピチのマスドライバーから射出され、成層圏を抜けて宇宙へ出た瞬間、地球の“幼年期”は終わり、もはや地球人は交渉であれ戦いであれ、ムーンレイスと、ほぼ対等のポジションに立ったといえます。このことは、月にとって対応の変化を迫られる事態でもありました。地球帰還作戦は、軍事的に優位にあった月の側からの、いってみれば一方的な外交交渉(外交というものはそもそも、軍事力という裏づけあってのものです)でしかなかったのですが、地球が月に侵攻をかける可能性を考慮するに当たって、方針の転換をはかる段階にきたわけです。
 しかし案の定フィルは、このことに関してはひどく鈍い認識しか持たず、おかげでミランとの間に意見の対立を生じさせていました。自らの王国の成立基盤が月の科学力の優位性にあり、しかしそれがいまや揺らぎ出している、という事実に、彼は気づいていないか意識的に気づかないようにしているようです。挙句の果てには自分は軍人だからと開き直って、ミランにこの問題を投げてしまっています。どうもフィルという男は、軍人といってもせいぜい前線指揮官程度の器で、到底司令官の器量を備えているようには見えないのですが、先のマキャヴェッリの言葉でいうなら、運には恵まれているものの、力量と時代への適合性に大きく欠けている、といったところでしょうか。
 このフィルに限らず、時代の変化への対応の必要性というものを、認識できない人間は多くいるようです。後に出てくるアグリッパもそうですし、ギム・ギンガナムなどは、時代の変化を認めながらも、それについていくことをあえて拒否する、というタイプの人物です。ギンガナムがフィルやアグリッパよりも賢明だったといえるのは、そうした己の性を知りつつ、自らは指導者になろうとはしなかった点でしょう。もっとも彼の場合、ディアナを殺して君主として立つには、あまりにも彼女個人への愛慕の念が深すぎた、ということがあるのですが。

 時代の変化のテーマは、先のアデスカ編で、いわば前振りとして語られていたのですが、第35話はそれを消化するかたちとなっています。
 アデスカの民が“アデスの枝”と呼んでいたザックトレーガーにウィルゲムとジャンダルムが到着し、前稿で述べた「金枝篇」とのアナロジー的にいえば、ここでディアナからキエルへと王権授受が為されたわけです。月社会の停滞は、ディアナが地球帰還作戦を発動させたことですでに変化が始まっていましたが、ムーンレイスも地球人同様、“幼年期の終わり”を迎えたといえるでしょう…いや、文明的老境期にあった月には、ザックトレーガーでディアナとキエルがお互いの名前を呼びあう場面(ここでふたりのパーソナリティが完全に合一であることの再確認が行われます)をもって、宇宙世紀という時代の死を迎えて、再生の段階に入ったというべきかもしれません。
 おそらく地球にしろ月にしろ、次の時代に移る準備はもとよりできていたものの、準備段階から先へ進むきっかけを欠いていたのでしょう。そしてそのきっかけを与えたのがディアナの地球帰還作戦でした。これも前稿で述べたように、大きな社会的変化には、しばしばそのために異文化や“他者”の介入を必要とするものです。
 この「∀ガンダム」は、異文化との交接や“他者”との併存、そのことによる変化や、新しい世界の誕生といったテーマを描いた物語であり、そもそも、そうであるためにふたつの文化圏を男女になぞらえた、壮大な性行為の物語なのではないか、との見解を僕は持っています。地球の文化の、その前進的で躍動的な活力に満ちた性質と、しばしば闘争的側面が顕著なところなどは社会の男性的人格を、反対に月の文化は、闘争本能を眠らせたまま、ひとりの君主をいただいて数百年も同じ社会を維持していたほど停滞的であることなどから、平和と安定志向のきわめて強い女性的人格を見出せるように思えます。また、それぞれの文化を象徴するキャラクターとして、男性のグエンと女性のディアナが配されていることも、たぶんに意図的なものを感じます。
 だとすれば、テーマ上の展開的にはディアナとグエンが、作中で性行為に及んでいるか、少なくとも恋愛関係になっていてもおかしくないのですが、実際にはこのふたりの性的関心は、直接互いに向けられることなく、どちらもロランという、地球人でありムーンレイスでもある(男性であり女性でもある)クロスボーダラーを媒介しています。その辺りがなかなか一筋縄ではいかないところなのですが、まあ、それについてはまた稿をあらためて述べることにしましょう。
 ともかく、こうした観点から作品を見ていくと、ところどころで男女間のセックス(性差)を強調する描写がされていることに気づきます。第36話では面白いことに、宇宙の環境に男よりも女のほうが比較的あっさりと適応してしまう(ミリシャの兵士たちが慣れない無重力に四苦八苦しているときに、キエルとソシエは、ロランを交えて「狼と羊」ごっこをしている、というように)という描かれ方がされていましたが、女性を男性よりも強い存在として描き、女性の生理を重要なものと捉える富野監督のスタンスは、かつての宇宙世紀物の「ガンダム」作品におけるそれと、基本的には変わっていないようです。
 実際、「∀ガンダム」ではディアナという女性の、きわめて女性的な生理による願望が物語全体を動かしていました。地球帰還作戦とそれが引き起こした月と地球双方の災厄も、その後にくる新世界の創造も、女神の神格を与えられた彼女による、性願望の所産物であり、性行為であるという見方は、おそらく不可能ではないでしょう。行為自体(政治や戦争)は男が主導しているように見えて、行為のきっかけを男たちに与え、コントロールしていたのは女のほうだった、というストーリーの基本ラインは、政治に自ら関わり行動する大統領型君主と、自らは関わらず、行動しないことで政治を動かす主体となる天皇型君主との相違ともリンクするものです。
 この、実質的な主人公であるディアナ・ソレルが直接事態を動かすよりは、彼女の存在を中心として周囲の人間が動く、という構造において、さしずめロランなどは彼女によって動かされたキャラの典型でしょう。いささか下世話な見方をするなら、ディアナという“メス”の獲得のために、ロラン、グエン、ハリー、ギンガナムといった“オス”たちが競争を繰り広げる物語だともいえます。ハリーにとって幸いだったのは、彼が偶像としてのディアナの実体にはさほどこだわりがなかったことと、そうであるがために、キエルという“代替対象”を得れば、競争から脱落するしかなかったことで、おかげで彼は、競争の敗者であるグエンやギンガナムが迎えたような、没落や破滅を免れました。
 そういえば以前に、「竹取物語」になぞらえてディアナと先代ウィル・ゲイムとのロマンスを描いたエピソードがありましたが、あのエピソードでも、ウィル・ゲイムはディアナを獲得するための競争で遭難に遭い、そのロマンスの残滓とでもいうべきキャラである子孫のウィルも、ディアナと接触した途端に悲惨な末路を迎えています。
 こうした辺り、ディアナは男に行動のきっかけを与え、愛情を注ぐと同時に、そのことでもって男を破滅させるといった、女性の生理の暗部や二面性を象徴するキャラクターといえるのかもしれません。が、それは富野監督の女性観…というより、女性に対する理想や願望の部分でしょう。おそらく監督は、ディアナに対するハリーのスタンスと、かなり近い観点で女性を捉えているのではないでしょうか?
 その生理をリアリズムで描きながら、その実、ほとんど古風といってもいいくらいの女性へのロマンティシズムを監督は持っており、それがこの「∀ガンダム」という作品を生み出す原動力になっていた…僕にはそんなふうに感じられたりもします。

 さて、第37話からはいよいよギム・ギンガナムが登場し、物語の帰着点が明確になるとともに、“セックス”という作品のメイン・テーマも、これまでより表面に現れたかたちとなります。この「君主論」も、本論中の本論に触れなければならないところにきた、というところでしょうか。
 それを語るにはまだまだ多くの語数を必要とするので、今回はこれで筆を置くことにしますが、読者の皆様には、もう少しだけおつき合い願えれば幸いです。




↑一応、後4回か5回くらいを予定しております。ここまできてようやっと先が見えてきた気のする管理人に、よろしければ激励の拍手を!





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