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「∀ガンダム」における君主論・その10

2007.08.10 Friday 15:23
 遅れて申しわけありません。本当にひさびさの「君主論」です。
 アメリア大陸を離れたロランたちは、“アデスの枝”伝説発祥の地、アデスカにたどり着きます。
 今回は第32話「神話の王」と第33話「マニューピチ攻略」の二本…この作品が内包する神話的テーマをもっとも顕著に表した、興味深い二つのエピソードについて語りたいと思います。

 ところで「金枝篇」を読んだことのある人なら、ジェイムズ・フレイザ−のその著作に表された神話学的モチーフが、かなり意図的に32話と33話に用いられていることに気づくでしょう。僕は岩波文庫の簡約本でしか読んだことがないので、ごく大雑把にしか語れないのですが、どうかご容赦をお願いいたします。
 「金枝篇」は、数多くのSFやファンタジー、それに映画だとF・コッポラの「地獄の黙示録」などにも創作上のヒントを与えた、古代信仰・呪術研究の集大成的著作で、その膨大きわまる情報量を含んだ内容は、なかなか簡略には説明できません。なので、ここでは表題となっている「金枝」についてのみ、語りたいと思います。
 イタリアのネムの村、アルバの山麓にはディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)神をたたえた聖所があり、その聖所の聖域内には、一本のヤドリギがあります。そのヤドリギは枝を折りとることを許されない神聖な樹であると同時に、王権の象徴でもあって、そのため「森の王」と呼ばれる祭司が、昼夜を問わず剣を持って樹の周囲を歩き回り、枝を折ろうとする者を近づけないよう警戒しています。
 祭司は、「王」と呼ばれるだけあって強大な権力を持っており、また、その祭司になれるのは逃亡奴隷だけです。王権の交代は聖なる樹の枝(金枝)を、逃亡奴隷が折った後に祭司を殺すかたちで行われます。「金枝篇」は、その、金枝にまつわる王権交代の風習をもとに、このような風習が、なぜ長年に渡ってつづけられてきたのかを検証する内容となっています。
 神話や伝承という観点から、「∀ガンダム」をひとつの象徴的物語と見た場合、まず、実質的な主役であるディアナ・ソレルの名が、ローマ神話の月の女神ディアナ(ギリシア神話ではアルテミス)からとられただろうことは容易に想像がつきます。また、作中でザックトレーガーが、“女王”であるディアナ以外が使用してはならない(触れてはならない)“禁断のルート”とされていること、32話でアデスカの王が、そのザックトレーガ−を“アデスの枝”と呼んでいること、エピソード自体も「王殺し」による王権の交代劇であること、当然ディアナの名も、上記の“森のディアナ”になぞらえているだろうことなどから、この“アデスカ編”が、意図的に「金枝編」から多くの引用を用いているのは、たぶん間違いのないことだと思われます。
 実際、天皇型君主のディアナを“祭司”とする見方も、天皇の役割が単に国家と民族を統合する君主としてのそれだけでなく、“日本神話における最高神の末裔”という、神道の最高司祭的役割も持つことを考えれば、奇妙なくらいの論旨的一致を見ます。
 なぜ奇妙なのかといえば、この「∀ガンダム」の作品世界では、宗教というものがどういった位置づけをされているのか、かなり曖昧にしか示されない(ホワイト・ドールや黒歴史の伝承、このアデスカ編でのエピソード等から、宗教や神話それ自体の存在は確認できるようですが)ため、ディアナが本当に天皇のような、王権と神権とを兼ねた君主であるのかは、断言しかねる部分もあるからです。僕が論考を進めるために便宜上用いている“天皇型”という呼び方も、だからそれが富野監督の意図に適った呼び方なのか、実のところあまり自信がない、と、この際白状しておかなくてはなりません。
 フレイザ−の著書では、未開社会での「王殺し」の風習における“王”とは、宗教的権威を司る存在とされています。「王殺し」が起こるのも、現王のその宗教的権威が弱体化した際であり、ムーンレイスにとってのカリスマであるディアナが、地球帰還作戦での失態を機に、権威の衰えを見せている展開には、やはり「金枝篇」との類似性を見出すことができるでしょう。
 ちなみに、“王(おう、おおきみ)”という呼称は本来、土着的、民族的首長の意味合いを持ち、軍事的征服者といったニュアンスを持つ“皇帝”とは、分けて考えられるべきです。また、外国人が天皇について説明するときは、“エンペラー(語源は”最高司令官“を指すラテン語のインペラトール)”という単語を使う場合と、
「キリスト教徒にとってのローマ教皇のような存在」
 という、思想や精神の象徴といったようないい方をする場合とがあるようです。個人的には後者の説明に、僕は納得するものを感じたりもします。

 さて、「金枝篇」に倣ってディアナを“王”に、ザックトレーガ−を金枝に例えるなら、次代の王となる“逃亡奴隷”に当たるのは、むろんキエルでしょう。
 彼女が物語の当初では、ハイム家の長女という不自由な、受身の立場のキャラクターであったことや、ディアナの降臨とそれに伴う幾多のトラブルによって、やがてその立場から脱し、物語の展開を主導する自由な立場にまでシフトチェンジしたことを考えれば、キエルを“逃亡奴隷”的キャラクターと見なすことも、あながち不可能ではないように思います。また、アデスカの次代の王たるタルカが、先代のクワウトルから王権を譲り受けたのが、その王を殺し、王の仮面を被る、という手つづきを経てのことだったことを思えば、このことはキエルが、ディアナの外面を装うことで内面的にも彼女に成り代わるという、この物語の基本モチーフとも一致します。
 ということは、「金枝篇」のモチーフ的には、キエルは象徴的にディアナ殺しの役割を与えられていることになります。
 “女王の死”は、このアデスカ編の前後辺りで、匂わせるような描写が随所にありました。ディアナが地球に降りてきたのは、地球で死ぬためだった、と説明されたり、また、ミーム・ミドガルドに引き渡されてからの彼女の処遇に関して、ふたたび冷凍睡眠に入るだろうと語られたりもしています。アグリッパの思惑としては、女王の権威を利用するだけで実権は自分が掌握しておきたいのですから、月に帰還してからのディアナの“睡眠”は、死と同義でしょう。実際この場面で彼女は、二度と地球の風景を見られないのではないか、と危惧してもいます。
 前稿で僕は、ディアナの女王としての権威は、スタンドアローンで活動するキエルに引き継がれた、と述べましたが、これはすでに実質的な王権の継承が為されたことを意味しています。この物語の序盤において、いささか未熟な君主であったディアナが、地球に降りたことを契機に成長を遂げ、やがて君主として完成したときに得た認識が、
「自分よりもキエルのほうがより女王にふさわしい」
 というものだったとすれば、それは本来の彼女の地球帰還作戦の動機であった“自死”が、“君主としての死”とつながったことを示しているでしょう。
 いってみれば、“王”は“逃亡奴隷”を見出したことで、ようやくにして(ディアナは数百年もの間、象徴的君主として君臨させられつづけたわけですから)死ぬ資格を得た、ということになります。キエルによる“王殺し”はこの作品のラストで、彼女がディアナに代わって恒久的に女王に成り代わることで完遂したわけです。
 もともとディアナのキャラクターは、月の女神アルテミスにちなんだ名を持つだけあって、かなり神格化の度合いの強いものでした。ギリシア神話のアルテミスは処女性と狩猟、豊穣を司る存在ですが、同時に人々に人身御供を要求する、恐ろしい神の側面も持っています。
 ムーンレイスに深く慕われるディアナが、結果として地球に多大な争乱と不和を引き起こしたことは、この命名の由来となった女神の、矛盾するニ面を表しているようで興味深く感じられます。
 また、このことと果たして関係があるかはわかりませんが、この作品においては、∀ガンダムないしはホワイト・ドールと呼ばれる機械人形もまた、黒歴史を象徴する忌まわしい“白い悪魔”と、マウンテン・サイクルの儀式における聖なるイコンと、異なった二つの顔を持っています。このことも、作中頻出する二項並立のテーマとリンクするものでしょう。矛盾する二面であっても、それを対立的な要素として描かずに、女王ディアナやホワイト・ドールの内包する、並立し得る要素として描いている辺りが、この作品の特徴的なところです。
 いずれにせよ、ディアナのキャラクターは物語の当初から神話的雰囲気を帯びており、しかし、物語の推移とともに次第にそれが薄れて、“人間”に近くなっています。冷凍睡眠という手段によってではあれ、月の世界で半永久的に生き永らえてきた、半ば人間を超越した存在である彼女が、地上に降り、後継者を見つけ、女王を退いて“人間”となったとき、神話の生ける伝承者たる天皇型君主の権威と生を失って、一介の人(私人)として死を迎える、というのは、作品のテーマからいっても当然の帰着でしょう。

 32話と33話では、主役たるディアナ=キエルの出番はほとんどなく、主役機であるホワイト・ドールの出撃の機会もなく、あくまでアデスカという土着民族の古い文化やしきたりの中にロランたちが入っていくという、異文化接触のアクシデントを描いています。そのため、シリーズ全体の流れからは、この二編だけ、ともすれば浮き上がって見えるかもしれません。
 異文化接触といえば、地球帰還作戦によって突如到来したムーンレイスと地球の関係がそれであり、また、月の世界はテクノロジー面では地球に千年の長を持ちながら、政治や社会システム面では中世的、古代的な王制や母系社会へ退行している(それらが近代の民主制に較べて劣っている、というわけではありませんが)こと、ストーリー中で王の交代劇が語られることなど考えるに、この“アデスカ編”は、「∀ガンダム」の物語の縮図と見ることも可能でしょう。
 力の衰えた現王クワウトルに当たるのがディアナ、その資質を認められ次の王へ推されながら、民を背負うことの責任を恐れるタルカがキエル、アデスカとは異なる部族の生まれながらクワウトルにつき従う、クロスボーダラーの少女マヤリトはロラン…というように。
 結果としてこのエピソードでは、クワウトル王がロランたち異文化の民に協力することで、王の死による王権の交代が為され、アデスカは時代の新しい段階に進むことができたわけですが、この、力の衰えた王が自らの死を求めて(初めて彼がロランたちの前に姿を現したとき、「なにをしているのか?」と問われて彼は、「死を待っている」と答えています)“他者”との接触をはかる…そのことで次代の王へ権限を譲渡する、というのは、そのままディアナの物語と同じです。
 彼女の地球帰還作戦の動機は、内的なものとしては地球で人間として死ぬことに、外的なものとしては衰退へ向かっている月社会の古い時代を自分の代で終わらせ、新しい時代へ移行させる、というものがあったでしょう。
 数百年もの間たった一人の君主をいただいて、なんの不満もない社会とは、いってみれば数百年もの間停滞しつづける社会ということです。とはいえ、歴史の流れはどんなに停滞した社会にも変化の必要を求めるもので、しばしば君主とはその、“歴史の要請”に応えなければならない存在でもあります。
 ディアナが潜在的に求めた自死とは、歴史の要請によるムーンレイス社会の変革の必要性とリンクしており、したがって彼女が地球に降りたことで時代の変化が生じるのも、そのことでムーンレイスの意識に変化が生じる(歴史に触れる人間の多くは、時代が変われば否応なく意識を変化させないではいられないものです)のも必然だったでしょう。アグリッパなどはその必然をまったく読めないタイプの人間で、このタイプは官僚には向いていますが、君主の器にはほど遠いといえます。
 しかし、異文化との接触が変革には必要だとはいえ、必ずそれがプラスの方向に働くとは限らない(ディアナの地球帰還作戦が争乱をもたらしたように)のも事実です。“アデスカ編”では、直接的にはアデスカの民と接触しなかったものの、グエンという、ロランたちとはまた違った“他者”のスタンスも描かれていました。
 グエンは単純に、ウィルゲムを成層圏外に飛ばすためのマスドライバーが必要だったからマニューピチ攻略を実行するのですが、その目的のためには、マニューピチごと砲台をメガ粒子砲で焼き払うことにも躊躇しません。
 むろん、上記のような作戦を立てたからといって、彼を冷酷非情と非難するわけにはいかないでしょう。この作戦はあくまで、ロランたちの潜入工作が失敗した場合の次善策だったのだし、その前には彼は、砲台に対し正面から機械人形で攻撃するという正攻法をとっています。
 グエンが真に非情なら、最初からマニューピチに砲撃を加えてさっさと片をつけていたでしょう。が、効率面では劣っているのに、わざわざ犠牲の少ない作戦から順に実行している辺り、むやみに犠牲の伴う策が最良の策ではないことを知っている司令官といえます。とはいえ、アデスカの文化や世界樹伝説の信仰といったことに、グエンが自らの政治目的以上に重きを置いていないのも確かでしょう。
 このことは、月世界の社会や文化に対しても、基本的にどういったスタンスで彼が接しているかを示すものかもしれません。グエンを、“話し合いのできる人物”と認めながらも、ディアナ=キエルが常に彼に対して一定の警戒を覚えるのは、
「自己の目的に適う限り、他者を受け入れる」
 という、そのスタンスを恐れるがゆえにではないかと思えます。





↑今回もあまり「君主論」って感じじゃありませんが、今後もおそらくそんな感じになりそうな…それでもいいとお許しいただけるのであれば、どうか拍手を。





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