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「∀ガンダム」における君主論・その7

2007.06.07 Thursday 19:36
 ひさびさの君主論です。お待たせしてしまって本当に申しわけありません。
 この「∀ガンダム」が、はるか未来が舞台の、それも戦争を題材にした作品である以上、テクノロジーの問題に言及せずにストーリーを展開することは不可能でした。
 今回は第20話「アニス・パワー」から第25話「ウィルゲム離陸」まで、この作品におけるテーマの一つであるテクノロジーについて、それから君主と民衆との関係ということについて語ってみたいと思います。

 ノックス崩壊以後、月と地球の両君主、ディアナとグエンは共に公的な地位からは転落したかたちとなっています。月側は、とりあえずはキエルがディアナの代役を演じていますが、彼女が交渉再開を要請したにも関わらず、結局のところ地球側に人物がいないために、両陣営間に膠着状態がつづき、戦略性のない散発的な戦闘が相次ぐ状況となりました。
 このような状況ですから、必然グエン・ラインフォードはふたたび政治の表舞台に立つことを求められ、またグエン自身が失脚したまま楽隠居するつもりなど毛頭ないために、ふたたび自己の権力回復をはかるために動き出します。
 その彼がとった手段というのが、キングスレーの谷で発掘された宇宙船ウィルゲムの運用プロジェクトを立ち上げることだったというのが、僕にはなかなか面白く感じられます。
 大統領型君主が天皇型と違い、民衆の支持を得るために行動を必要とする点を考えたとき、また、以前にも述べたグエンの政治家としての特質…私的欲求と公目的とを見事に合致させる才能…とを考えたとき、こうした大々的なプロジェクトで民心を買うのは、いかにも彼らしいといえます。
 このプロジェクトでグエンは、戦争している当の相手である月側の技術者を大量に雇い入れます。彼にすればウィルゲムを飛ばすのに地球人の技術力だけでは到底不可能と考えたからであり、いたって合理的な判断を下したに過ぎないのですが、同時にこれが敵側の戦力の切り崩しと、新しい彼の権力基盤の確立に寄与していることはいうまでもありません。
 ムーンレイスの民間人にすれば、地球に降りて以降は予想しなかったことばかりが立てつづけに起こっている状態です。不幸な衝突により望まない戦争に突入した挙句、植民計画は一向にスタートせず、それどころか地球人たちの反感を買うばかりで、下手に入植などすればトラブルがさらに拡大しかねない中、彼らがこれでは地球移住など絶望的だと判断したとして当然でしょう。
 そんな彼らにとって、唯一のチャンスと思えたのが、このグエンの“ウィルゲム・プロジェクト”でした。このプロジェクトがれっきとしたグエンの政治的企画であることは、ムーンレイスの技術者たちも承知だったでしょう。これに参加するということはイコール、グエンの派閥に入って彼を支持する、ということにほかならず、その見返りとして(大統領型君主と民衆の関係は、常にギブ・アンド・テイクが基本です)事実上の地球の移住が黙認される、というわけです。
 政治的企画としてのウィルゲム・プロジェクトは、イングレッサ領主の地位から転落したグエンの公的地位の回復、月との交渉ないしは戦闘のための戦力の増強、そしてこれもグエンの計算のうちだったかどうかはわかりませんが(たぶんに計算の範疇だったように思えますが)、地球人とムーンレイスの共存の可能性を示す、という三つの目的を備えたものです。これら三つは立派に公に属する目的ですが、同時に、グエンの個人的な動機…進んだテクノロジーへのあくなき好奇心、というものが、この企画の根底にあったのは間違いないでしょう。要はグエンは、例によって“公私混同”をしてみせたわけです。
 このことは意外に深い意味を(特にこの物語の後半部分から)持ってきます。グエンの企画のおかげで、地球人/ムーンレイスの関係に明るい展望が示されたのは確かで、実際、キングスレーの谷の作業現場では、戦争がいまだ継続中だというのに、奇妙に違和感なく、両種族の協力関係が成立してしまっていました。
 とはいえ、同時にウィルゲムはグエンにとって“戦力”です。その“戦力”が用いられるのが、交渉上であるのか、実際の戦闘においてなのかはともかく、グエンのカードにされるためのものであることは疑いありません。そして有能な政治家にありがちなこととして、グエンもまた、手段の目的化に溺れやすいという弱点を持っています。
 第23話でいみじくもキースがこんなことを述べています。
「軍事技術って大人の男の玩具みたいなものなんですから、男はすぐにそういうものを使いたがるんです」
 その、“大人の男の玩具”を使おうとする欲求が、引いては必要もない戦いを生み出しているのだ、というのが彼の主張でしたが、この言葉を受けたディアナは、自身が女性であるためか、そうした見解に至った経験がないらしく、虚を突かれたように、
「殿方ってそうなんでしょうね」
 と答えただけです。
 これは案外と一笑に付すことのできない主張かもしれません。新しい科学技術というものを、それが現実に与える影響の如何に関わらず、実現可能と見れば実現させずにはおかない、ある種の“本能”が人間にはあります。
 実現した技術は、(主に男性的欲求から)使ってみたくなるもので、「∀ガンダム」はいってみれば、この未熟な人間性に比して発達しすぎたテクノロジーの暴走が、結局文明を滅ぼしてしまった歴史を持つ物語です。
 少し話題がフライングしますが、後に出てくるギム・ギンガナム艦隊などもその例でしょう。彼らはディアナ・カウンターという近代軍の創設以降は、無用の長物と化してしまった、存在意義を失った軍隊です。不幸なことに彼らは、明治維新以後の侍たちのように刀を収めることをせず、兵器を所有したまま二千年以上も月軌道上で軍事演習をしていました。月と地球という二つの異なった文化が接触し、衝突が起こり、そこに戦争の可能性が生まれたとき、フラストレーションを抱えた彼らが、
「我が世の春がきた!」
 と、快哉を叫んだとしても、人間性の本質としては、ある意味自然でしょう。
 これは人間に本来闘争本能があるということばかりでなく、近代以降、戦争とテクノロジーの発達とが、常に密接な関わりを持ってきたことに端を発する問題です。が、これについては後にまた、突っ込んで述べる機会もあるでしょう。
 グエンのテクノロジーへの関心も、それが宇宙船を飛ばす、という建設的方向へ向けられている間はいいのですが、同時にそれは、テクノロジーの利用それ自体を目的化する危険性を内在してもいるわけです。そしてキースは、グエンという男は、そのために戦争を拡大させかねない人物だと語っていました。

 さて、ここまでの主張だけを聞くと、まるで富野監督がテクノロジー批判をしているかのようにも思えます。
 が、実際のところテクノロジーというテーマに関して、なにか明確な主張なり批判なりが、この「∀ガンダム」内でなされているようには、僕には感じられせん。いや、というより監督は、あえて明快な回答はせずに、
「後は自分で考えてごらん」
 と、視聴者にメッセージを預けているような印象があります。
 というのも、このテクノロジーということについては、作品内で繰り返し、その正負両面が対比されるような描かれ方がされているからです。
 コレンのMSが使っていた武器でロランが穴掘りをしたときも然りで、このときはシド爺さんが、
「兵器というものは使い方次第で便利な道具にもなる」
 といっていますし、また、第21話では野戦病院で傷病兵の汚れ物を洗濯するディアナを手伝うため、ロランがホワイト・ドールを、“洗濯出動”させていました。余談ですが、洗濯機というものが発明される以前には、洗濯とは真に重労働でした。女性は半日かけて汚れ物を洗っていたのです。ソ連駐在時の松下幸之助のエピソードに、
「あなたの国は世界中の労働者を解放するそうですが、私は(洗濯機を指差して)これで世界中の女性を労働から開放します」
 とロシア人に語ったというものがあるそうです。
 宮崎駿監督のような、テクノロジーに対する全否定的スタンスは、「∀ガンダム」製作中の富野監督には見受けられません。技術とは結局使い方次第だ、という、ある種ありがちな見解に落ち着いているようにも思えますが、上記のように、機械を使うことを自己目的化してしまう人間性の弱点…いってみれば、人間のほうが機械に使われる危険性にも言及している辺り、そんなに単純なものでもないのでしょう。個人的には富野監督の、やや曖昧なスタンスのほうが、僕にはより現実的でバランスのとれたもののように感じられます。

 政治的プロジェクトを立ち上げることで、自らの君主としての立ち位置を再構築しようとするグエンに対し、ディアナのほうはというと、土地に固執する婆さんを戦災から避難させるとか、野戦病院で働くとか、やることがどうにも地味です。これはむろん、二人の立場の違いが大きく行動に関わっているわけですが。
 前の稿で僕は、統治にはフィクションの創作と重なる部分が多い、ということをいいましたが、実際問題統治とは、物語を語ることだと思っています。
 第24話ではレッド隊という、先祖がムーンレイスであったために地球社会に同化せずに、何世代にも渡ってムーンレイスの民族アイデンティティを継承しつづける者たちが登場します。皮肉なことに彼らは、地球生まれであるという理由でディアナ・カウンターから差別されており、そのため現状での自らの社会的ポジションを受け入れるより、観念としての民族アイデンティティにますます固執することになります。その度合いは彼らと同じくディアナの崇拝者であるロランからさえ、狂信的と呼ばれるくらいに過剰です。
 民族アイデンティティとは、それ自体はかたちもなく、また明確な根拠もないもので、いってみれば一種の神話とかフィクションとか呼べるものです。が、それによって民族や国家というものが規定される力を持ったものであることは間違いありません。そしてディアナのような天皇型君主のもっとも重要な、もっとも強く求められる役目は、この民族アイデンティティに、それなりの実体や根拠を与えることだといえるでしょう。
 たとえば日本の天皇が、なぜ日本の君主たり得るのかといえば、その存在が日本の歴史や伝統…天皇制というシステムが起こった歴史的背景や、そのシステムがかたちづくってきた“日本”という国家、“日本人”という民族の民族性を体現するものだからでしょう。いわば、天皇とは一個の個人というより、“日本”という名の歴史物語なわけです。
 である以上は、天皇制がもし廃止ということにでもなれば、(少なくとも現時点では)日本人のアイデンティティが見失われてしまうのは、避けられないように僕には思えます。
 ディアナの場合も同じで、彼女はレッド隊の者たちにとっては、彼らが帰属する月という社会や文化を具現化した存在…“ムーンレイス”の物語そのものです。つまり、彼らは彼らの暮らす地球社会の現実に適応するよりは、観念的な民族性の物語に依拠して生きつづけるほうを選んだわけで、こうした観念主義者がいざ戦争に参加でもすれば、もっとも過激な戦闘者になりがちだというのは、作中の描写においても示されていました。
 君主が物語性を帯びる存在であるというのは、なにも天皇型君主に限った話ではなく、基本の部分では大統領型も同じです。
 ただ、大統領型君主は政治家を兼ねるために、統治のフィクションを自ら創作する余地を備えているという点に、天皇型との相違があります。前述したウィルゲム・プロジェクトも、あれはグエンの創作、演出による政治的フィクションの一つですが、ディアナが民衆の支持を得るために、同じような大々的プロジェクトを立ち上げることができないのも、彼女が政治家ではないからでしょう。これは統治者が物語の創作者であるか、物語そのものであるかの違いといってもいいと思います。
 ディアナは、彼女が天皇型君主である以上、また、彼女が背負うのがムーンレイスの民族性や、連綿とつづくその歴史である以上、作為によって物語を勝手に脚色することの許されない立場です。
 そこで、この作品の冒頭で“地球帰還作戦”という物語(政策)を見事に語り誤ってしまった彼女は、筋の修正をはかるために、物語たる自分自身を修正しなくてはならなくなります。彼女がグエンと比較して、実に地味な行動から失地回復を始めたのもそのためでしょう。天皇型君主の統治の物語は、君主自身の変化と成長によってでしか、根本的な修正は行えないのですから。
 その歩みも一見、遅々として進みがたいように思えますが、彼女の傍らにいる“民衆のモデル”であるロランに関しては、彼女のそうした変化が、彼自身にも変化をもたらしていました。
 それはこの戦争の本質が、本来はパワーのぶつけ合いによる対立でないことをロランが承知しているからなのですが、第25話ではそんな彼自身が、皮肉にもグエンの行使するパワーに成り下がっていると、キースに指摘される場面があります。それ以前にもロランがグエンの行動に疑問を感じる様子は随所に現れていましたが、この指摘と、この回における戦闘中のウィルゲム飛行テスト…それによってグエンが、自らの復権をデモンストレーションしたこと(リリはいみじくもそれを、“グエン様の勝利”といっています)で、彼の中に叛意のようなものが芽生え始めていました。
 ロランが、”話し合いによる解決を待っている”つもりでやっていることのすべてが、現状グエンのパワー獲得に寄与している結果に、彼も否応なく目を開かれずにいられなかったのでしょう。
 この変化はやはり、ディアナという天皇型君主の存在が側にいることによって生じた変化だと感じられます。大統領型君主のグエンは、たとえばアニスなどのように、民衆とは自分の生活基盤を守ることを第一義とするもので、国家や君主とも、それを保証してくれることを前提とした契約関係で結ばれていると、理解しているようです。
 だから、ムーンレイスの技術者たちを雇い入れるのにも、まったく躊躇しませんでした。民衆とは本質的に味も素っ気もないリアリスト集団であって、彼らは、衣食住と社会参加欲求に対する満足とを与えられさえすれば、昨日までの敵を支持することくらい、簡単にしてしまうのだと、そんな理解がグエンにはあるのかもしれません。
 それは確かに正しい理解なのですが、一方では上記のレッド隊のように、リアリズムだけでは説明のつかない(この君主論で再三述べていることですが)、感情や観念といった不確定な要素によって突き動かされる側面も、人間は持っているわけで、そして天皇型君主と民衆の関係の本質とは、実利的、物理的な契約関係というよりは、観念的、精神的な…いってみれば非理性的でウェットな結びつきです。
 これは一種の宗教と呼んでもいいかもしれません。宗教的信仰がベースとなっていると考えれば、天皇型統治は大統領型のそれと較べて、政教分離も完全でない(まあ、だから天皇型君主には政治的実権が与えられないわけですが)点で、かなりプリミティヴな統治形態だといえるでしょう。
 と同時に、この宗教的な君主/民衆の関係性が、政治の大義を守り、政治のパワーゲーム化を防ぐ効能があることも確かだともいえます。また、リアリズムではない、民衆の感情面での国家や共同体への帰属意識でまとめ上げられた天皇型統治は、それが実利的な契約関係でないだけに、大統領型よりも強固である場合がしばしばです。契約関係とは、当たり前ですが契約が正しく履行されなくなれば、雲散霧消してしまうものです。
 ムーンレイスの技術者たちが大量にディアナ・カウンターから離反してしまったのも、
「国民を食べさせる」
 という、国家の基本的義務、すなわち契約が果たされなくなったことが、大きな原因となっていました。
 不思議なことに彼らムーンレイスたちは、ディアナ・カウンターから離反した意識はあっても、ディアナ個人から離反したという意識は皆無のようです。むろん、人間とはそういうもので、感情部分で、つまり理屈抜きで結びつけられた君主への忠誠とか求心は、立場や考え方が変わったからといって、そうそう簡単に変質してしまうものではないのです。

 逆にいえば、ディアナはグエンのように、民心獲得のためにあらためてプロジェクトを組む必要がなかった、ということなのでしょう。
 たぶん彼女は、
「なにが民のためであるか」
 ということに心を砕いてはいても、
「どうやって民の支持を得るか」
 などとは、考えたことすらなかったのではないでしょうか。やはり彼女は、作為によって“君主となる”存在ではなく、あらかじめ“君主である”存在のようで、そうである以上は…つまり、ディアナ・ソレルがディアナ・ソレルである限りは、その統治スタンスに多少の揺らぎはあっても、根本が変質することはなさそうです。
 ロランが最終的に信ずるに足る君主として、グエンではなくディアナを選んだのも、あるいはそこに理由があったのではないかと思われます。





↑今回は特に難渋しました。完成稿を上げるまでに下書きを二稿、自分でボツにして、今ヘトヘトの管理人によかったら労いの拍手を。


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